21世紀のレオナルド的発電/東京藝術発電所

東京藝術大学美術学部構内絵画棟、大石膏室アートスペースで東京藝術発電所というプロジェクトを見て来た。I, CULTURE PUZZLEという国際的な文化交流活動の一環で行われた、漆作品展「生まれなおす工芸:福島の漆」への照明電力供給をアーティストによる発電によってまかない、同時にそのような電力を使った作品も展示するもので、最終日にはライブパフォーマンスなどもあるようだ*1。面白い。端的に言って3月11日の東北関東大震災とそれに続く福島第一原子力発電所事故以降の、美術の領域から発信されたリアクションとして最もノーブルでありポジティブな内容だと思う。公式webサイトから以下の文言を引用する。

東京藝術発電所は、発電、送電そして電力消費の現場をトータルで立ち上げながら、福島と東京との間に横たわるエネルギー問題を皆様と共に考えます。ここから、私たちの生きるスタイルや、エネルギーをめぐる多様なヴィジョンが描き出されていくことを切に願っています。


原発原子力行政を批判的に取り上げた美術家・美術作品、展覧会、活動は複数見られる。ギャラリー山本現代で行われたヤノベケンジ氏の展示などが典型なのだが、しかし、それらの声高な、あるいは静かな原子力批判の表現は、圧倒的に20世紀のシステムである原子力発電所を遡上にあげる限りにおいて、その切り口も20世紀的にならざるをえない。そういった活動を否定する必要はないが(社会的に言えば必須な行程だろう)、しかし結果的に過去を批判的に振り返る視点ばかりが浮上している。東京藝術発電所はきっぱりと「未来」を見ようとしている。巨大な原発に対しここでは笑ってしまうほど簡単な仕組みが、その簡単さを隠すことなくあっけらかんと露呈している(原子力保安院の「開かれ方」を想起せよ)。かつて高層ビルを背景にしたホームレスのテントの写真を見ながら建築家の石山修武氏が「高層ビルは20世紀のものだがテントは21世紀的だ」と言っていた、その意味においてこのプロジェクトは21世紀的なのではないか。無論、ホームレス的未来とはシリアスなものだ。そのシリアスさをユーモアをもって捉える態度がいかに切実なものか。


プレゼンテーションは明快な二層構造になっている。石膏室に隣接した一室とその前の屋外で「発電」が行われている。自転車2台にバッテリとインバーターが接続されており人力で発電される。屋外にはソーラーパネルが3枚、手製の風力発電機が設置されている。もっとも作品性が高い池田剛介氏の発電システムは水槽から手動ポンプで組み上げた水を高所で車輪に落とし、その回転エネルギーで発電している。落ちた水は元の水槽に落下し循環する。水槽には金魚が放されていて、この循環水系を環境として生存している。いわば坑道のカナリアというか、循環系チェッカーと言えるだろう。池田氏は堂島リバービエンナーレで、気象的な水循環系をモデル化した作品を発表していたが(筆者は未見)、今回の「装置」はその作品を人間活動のエネルギー抽出の道具として再展開させたように見える。その意味では社会性に特化しているが、水槽に泳ぐ金魚は単なるチェッカーに留まらない、この作家の自然への興味へのリンクになっているように見える。


ここで発電された電力が2階の漆工芸展の照明に供給されるが、同じフロアに東京藝術発電所の作家の作品も置かれている。私が見た範囲で印象的な作家を挙げると、毛利悠子氏はソーラー発電された電力をアンプを経由して四角いコイルに通し磁場を発生させている。この磁場が円形コイルを通ることで更に電力に再変換され、振動モータが駆動しピエゾから音が出る。また磁場は磁気メーターによって表示される。ペースメーカーをつけている人や妊婦には注意が喚起されている。西原尚氏の作品は簡単なCDプレーヤーからアンプを通してさびた鉄板をウーファーとし音が出力される。あわせて回転する金属円盤と石のようなものからも音が発生される。大山エンリコイサム+大和田俊両氏の作品はipodに記録された音をウーファーから鳴らし、その空気振動で密閉したアクリルボックスに引かれた薄い紙のようなものを揺らし、その上に置かれた白粉を飛び跳ねさせる。併せてとなりに大山エンリコイサム氏の微細なドローイング(先に美学校・棚ガレリで展示されたものと同タイプのもの)が展示されている。


いずれも、大まかに言って目に見えない電気、磁気といったエネルギーの可視化装置と見ていい。見えないものを見せること。聞こえない音を聞かせること。世界は人の知覚形式に沿ってしか現象しないが、それは世界の全てが人の知覚内部の幻でしかない事には繋がらない。そこには人より遥かに巨大な、あるいは極端に微細な構造が、力が存在していて、それがまったく看取されない日常と突然クロスした時、災害的「現実」が浮上する。遊びの反対は現実だと言ったのはフロイトだが、東京藝術発電所はむしろ遊びのような装置によって反対の現実を想起させるような試みと言える。会場で気づくのが造形的な作品に「音楽」を接続しているものが多い点だ。音楽学部と美術学部を持つ東京藝術大学固有の成果が見てとれる。出品者の大和田俊氏は音楽学部を卒業した後大学院の先端芸術表現専攻に進んだとのことで、こういったクリエイティブな形での表現の横断性は素晴らしい。


以前、小説家の磯崎憲一郎氏が「世界を肯定する力に奉仕を」という発言をしていたが、東京藝術発電所福島第一原子力発電所事故が露呈させた「現実」を踏まえて、なおありうべき「世界を肯定する力」を模索しているように思える。しかもアーティストによってしかできないようなアプローチで。もう少し踏み込んでいうなら、このようなアプローチこそ、この時代のART(ギリシャ語のテクネーと結びついたラテン語arsを語源とする)と呼び得るのかもしれない。ここで行われていることは電力の専門家から見ればナイーブ極まりない試みだろう。だがそこに埋め込まれたアイディアやビジョンには生態系や環境、人の知覚形式など幅広い問題領域が含まれており、芸術哲学と言い得る契機を内包している。レオナルド的工房とも見える会場だ。ここで製造されているのは微弱な電力だけではない。総体として未来への展望を切り開く「ヴィジョン」の軽快なplay(遊び)*2となっているのではないだろうか。会期は16日まで。

*1:アップロード時に既に終えたように書きましたがこれからのようです。興味有る方は是非

*2:アップロード時に誤った記述をしていました。ご指摘下さった方に感謝します