夏の楽園の記憶・京都国立博物館「百獣の楽園」

夏に京都国立博物館で「百獣の楽園」という展覧会を見ていた。同館の収蔵品の中から動植物や昆虫をモチーフにした作品を猿、小獣、虫、魚といったおおまかな分類で分けて展示したもので、とりたててコンセプチュアルという程でもない、ある種の「ゆるい」展覧会だった。だけど、こういう「ゆるい」展覧会が、個々に水準の高い作品に接する機会になり、かつ品の良い催しになるところが京都という場所の豊かさなのだと思う。京都市動物園と提携していて、単純に夏休みの家族連れの動員をあてこんだ、と言ってしまえばこの展覧会の典雅な感じは消えてしまう。実際、小学生くらいの子どもが、夏休みにふと親に連れられて古典的な名品に触れるとしたら、別にその子が将来美術とは関係のない大人になったとしても、というかそういう大人になった時こそ、貴重な埋め込みになるのではないか。こういうのをストックと呼ぶのだ。


例えば長沢芦雪の「朝顔に蛙図襖」は、ほとんど絵を描いていない。6枚ある広い襖の白の中、右から三枚目の下に、小さく蛙を二匹描き、そこからひょろりとのびた笹のような植物の細い茎に、左端の朝顔からアーチを描くように、より細いつるが延びて巻きついている、簡単に言えばそれだけのものだが、マニエリスティックな江戸期絵画の、ある種の極地であるように思う。右端の月の有り様といい、クールというほかはない。ここでは地と図がセンス良く切り分けられているのではない。描かれたのはこの空間一杯に横溢したある種の時間であって、むしろ密度が高いのは描かれていない箇所だ(正確にいえば、蛙や朝顔といった個物の存在が描かれることによって同時的に何もない空間が空間として現象する)。それは抽象表現主義的な深奥空間でもないし、作図的遠近空間でもなく、絵巻的な横へ横へと延伸する時空間でもない。静的でもありながら動的でもあり、とても面白い絵だ。


雪舟という人のタッチはなんと分析的なのだろうといつも思う。この人の筆跡は、一度紙面に打たれるとただちに世界への句読点に変化する。ビート的と言ってもいい。「倣梁楷黄初平図」は小品ながらそのような雪舟の筆力がよくわかる。向かって左下から斜め右上に走る地面のタッチはそのまま画面右端の立ち上がる木の幹に連結する。その線に重なるように前後に足を開き、石を羊に変える黄初平の肉体の運動が描かれる。下半身は右上に、上半身は左上にベクトルをもち、顔と手は左下に向かう。左下にはうずくまる羊がいる。右端の伸び上がる樹木は一度画面から見切れ、あらためて右上から枝として左下へ向かい、ハの字に広がる(http://bit.ly/oGWkAj)。反時計周りの回転がシャープに渦を巻くようで、まったく曇りない。


狩野派の素材集的な巻物図鑑「鳥類図巻」は、横長の画面上にひたすら鳥の絵を押し込む。図案集のようでもあるから余白の都合で大型の鴨?がずいっと横向きに描かれていたりする。エルンストが援用した「ケルン教育設備カタログ」という児童用カタログがあるのだけど、そのカタログでは大きな鯨と机や孔雀がまったく並列に詰め込まれていて、相互の関係が断ち切られた上で羅列される。しかし「鳥類図巻」は、恐らく鳥相互の大きさの関係だけは生かされている。これは図案集として、実際に一枚の作品に大きな鳥と小さな鳥を描くときにそのサイズの関係がおかしくならないようにとの配慮だと思うのだが、結果ここではばらばらに見える鳥相互を共通したスケールとして捕らえるある統一空間がある。だから、この図巻には図らずもある種の「世界」が成り立っている。合間合間に植物なども書き込まれ、鳥の名前などもあるこの図案集こそ鳥の楽園に見える。


俵屋宗達の「牛図」は2007年に狩野永徳展を見に来た時目にしたが、今回改めて見てやはり気になった。墨のたらしこみ(この言い方が適当かどうか僕は疑問なのだけど)で描かれた牛は、画面にたまりつつ広がる黒の濃淡で表現されていて、絵としては伸びやかさを欠き「珍しい実験」以上のものにはなっていないと思う。だけど、逆に言えば俵屋宗達という人はけして「良い絵」というものだけしか考えていなかったひとではない、というのが判る。宗達の凄みはこういう、「いい絵ばかり描こうとしない」のが不意に感じられるところで、これは宗達を美的にのみ捕らえ拡大した琳派尾形光琳酒井抱一にはなかった感覚だと思う。むしろ琳派宗達の一番得体の知れないところを抜いて分かりやすい美学に収斂させている。「牛図」は珍しさというより宗達のわけのわからなさを見る絵ではないか。


初めて名前をしったのだが、愚庵の「葡萄図」は描写に切れがあり素晴らしい。永徳の二十歳の「花鳥図押絵貼屏風」は流石に達者だが、まだ永徳の「永徳性」は出ていない。若冲は何度も書いたとおり打率にムラのある画家だが今回出ていた「群鶏図障壁画」は良い構成でかつ若冲らしい鶏の描写も見てとれる佳作だと思う。丸山応挙はあいかわらずくだらない画家だと思う(この人の絵で多少なりとも面白いのは金刀比羅宮の虎だけじゃないのか)。北斎の肉筆画もこれまた何度も書いた通り木版画に比べ見るところがない。等本の藻魚図は変な絵で、なまずと魚の大きさの関係がうまく了解できない。これはトリミングとかされてないのだろうか。川鍋暁斎は相変わらず気持ち悪い。中国・清朝の李因の芦雁図はややグラフィックにすぎると思えたが冴えてはいる。


僕が訪れたときは酷暑といっていい気温で、まったく消耗したのだけども、この会場はオアシスのように空調が効いていて(東京はまだまだ節電まっさかりだった)、その意味でも楽園的だった。京都ではこのとき国立近代美術館で「視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション」が行われていて、僕は同じ内容を神奈川県立美術館葉山館でみていたから見なかったけれども、あわせてコレクションギャラリーで「ニュー・バウハウスの写真家たち」という展示があってこれも素晴らしかった(ヘンリー・ダーガーの発見者であるネイサン・ラーナーやアーサー・シーゲルといった作家たちの質の高いプリントが見られた)。「百獣の楽園」展が凄かったのは充実したカタログがわずか800円で売っていたことで、いくら収蔵品で構成したとはいえ安すぎではないかと思ったのだが、おかげでこうして記憶を確認しつつエントリも書くことができた(「ニュー・バウハウスの写真家たち」は流石に出品目録だけでエントリを書く気にならなかった)。東寺なども拝観したが、気が向いたらエントリを書くかも(これも記憶たよりだから怪しいけど)。