都心の高密度コレクション・ブリヂストン美術館

ブリヂストン美術館で「あなたに見せたい絵があります。」という展覧会を見た。「組立」の会場となったHIGURE 17-15 cas の小澤さんにチケットを頂いていたのだけど、これが本当に充実した内容だった。もともとブリヂストン美術館は素晴らしいコレクションを持っていて、企画展(先のアンフォルメル展とか)のたびに一端には触れて粒の揃い方に感心していた。だけど、久留米にもあるという石橋美術館の所蔵品からも選ばれた開館60周年の記念所蔵品展ということで、ブリヂストンの「凄さ」が横溢した内容になっていると思う。時間のある人なら半日くらい軽く過ごせてしまうんじゃないだろうか。


いま開催されている他の展覧会に絡めて言えば、3点のセザンヌは掛け値なしに良い作品だ。というか、セザンヌ展はブリヂストン美術館からこの3点が借りられなかったのは痛手だっただろうなと思う。ブリヂストン美術館にしても、開館60周年というタイミングでこのセザンヌを貸し出すわけにはいかなかっただろう(ポロックは貸し出していた)。特に自画像は、これが日本にあってくれて本当にありがたい、という水準のものだと思う。振り返りざまという構図も珍しいが、この絵で気になるのはなんといっても背景の不定位な描かれ方だろう。それが壁なのか、抜けた空間なのかまったく分からないのだが、そこからぬっとセザンヌの顔が浮かび上がっている。半ば彫刻的なまでに一筆一筆位置を確定していってる顔の部分に対し、「背景」として特に悩むことなく「普通」に定めればいい箇所の絵の具を、セザンヌはものすごく疑って、そういう通念でだけは描くまいとしている。この徹底した、絵画を一からやり直そうとする厳しさが作品全体を異常な緊張感で覆おっている。これを日本に持ち帰った武者小路実篤白樺派の見識は驚くべきだろう(facebookで上田和彦さんが白樺派は同時代のモダンアートをきちんとフォローしていて、そこで「制作」という概念を獲得していたけれども、戦後アメリカ美術をきちんとフォローする日本の反応はなかった、とコメントをくれていて、それを思い出しながら見ていたのでとても面白かった)。


例えばドガの描いた《レオポール・ルヴェールの肖像》の背景も相当不思議で、その顔の周りに散らされた褐色の絵の具は、それが単なる「壁」ではなく「絵の具」であることを示すようなマークで面白いが、それでもドガは「背景」という位置を一応踏まえた上で、いわばカッコをつけるようにタッチを散らしている。つまり顔-背景という一般的関係性を念頭においた上での制作をしている。知的というか、ある種批評的な絵なのだが、セザンヌはそもそもそういう位置関係をまったく基礎に置かない。本当に何もないところで、絵の具の関係だけで(つまり画面の中だけで)全部やり直そう、という感覚で、上山和樹さんがいう「制度分析」としての制作を具現化しているような絵だと思う。だからキャプションに、背景の塗り残しを「工夫」と書いてあったのは同意出来なかった。「工夫」なんていう気の利いたもんじゃないだろう、と。展覧会全体では親切なキャプションでそれこそ美術館の「工夫」としては頑張ったのだろうけど、それがここだけカチン、と来てしまうのはやはりセザンヌの緊張感が飛びぬけているからだろう。


こんなふうに一点一点見ていったらそれこそ時間にキリがなくなる展示なのだが、全体にマスター揃いの西洋絵画と並んで、日本の近代絵画もけっこう悪くない、と思わせられた。そりゃ安井曾太郎の半端にセザンヌルノワールを折衷した作品とか「やっちゃったな」という感じだし、岡田三郎助の俗なヌードとか恥ずかしいことこの上ないけど、それでも岸田劉生とか頑張っているし、坂本繁二郎も良い、面白い絵を描いている。思いの他興味深かったのは有島武二で、《黒扇》はなんだかんだ言って佳作というべきだろう。並べられた1929年の《淡路島遠望》と1932年の《屋島よりの遠望》は、その平滑さの展開の進展が過激だ。《淡路島遠望》はそれでも各要素がかっちりと造形され、いわば海景画として一応のまとまりを見せているのだけど(それでもホイックニーばりのフラットさなのだが)、《屋島よりの遠望》になるとほとんど絵画性が解体して油絵の具のずーっと伸びていく感じ、それだけが前面化していってそれだけみたら落書きみたいに見える。ここで有島は海という平らさに絵画の平らさを二重にしていて、ドービニー以来の近代西洋海景画の展開を独自にリファーしており驚くべきだと思う(会場ではレジャーのセクションにブーダンの海景画が出ていて参考になる)。


黒田清輝も、一般に保守本流という捉えられ方で、例えば高橋由一の飛び抜けた面白さと比較されて「退屈」とか思いがちだけど、細いところで面白い仕事はしている作家だと思う(ラファエル・コランよりは数段まともな画家だろう)。芸大の美術館で見た雲の連作も面白かったが、今回出ていた中では《ブレハの少女》の、表現主義的なタッチが目にとまる。この人は本当に同時代の西洋絵画のタッチをほとんど形式的に摂取して、ありとあらゆるタッチの絵画を生産可能にしていこう、という欲望があり事実その技量があった人で、そういう意味では対象こそ近代西洋画なのだけど、中国絵画をすべて形式的に摂取していた安土桃山以降の近世の封建社会の絵師(狩野派とか)とやってることは同じではないかと思わせられる。


岡鹿之助とか国吉康夫とかはクラフトだなぁ、と思ってしまうし、青木繁とか、なんでこう「西洋の真似」を痛々しい感じで日本の神話とかに結びつけてしまうのかと軽く落ち込んでしまうが、トータルで見ればやるべきことをやっている人は常にどんな時代や環境にも存在しうるのだと思うと励まされる。


ボナールがあり、マネがあり、ゴーガンがある。マチスの《青い胴着の女》は傑作だ。ここでは女性の、わずかづつ性格を変えた円を描くようなラインの組み合わせと背景の直線の対比を椅子の肘掛の線に仲立ちさせている。何度も見ているのに、ルオーの《郊外のキリスト》という絵の良さは今回初めて実感した。何度も書くがこの美術館の中核となる作品群の見事さは、あのスペースで見るとちょっとお腹いっぱいになりすぎるくらいのものだろう。ああいう集積が東京のど真ん中にあるというのは考えてみると奇妙なくらいだ(どこかの保養地に、今の10倍くらいのスペースを割いて美術館を作ったら、それだけでかなりの観光事業として成立してしまうだろう)。現代美術のところに来て全体のレベルがイマイチになるのはたまに傷だけど(新規収蔵のカイユボットとかちょっと退屈なので、新たなコレクションの選定体制は見直されるべきだと思う)、ハンス・ホフマンはポロック展を見たひとなら一応リファーしておいていいと思うし、彫刻のコレクションにブランクーシがいたりするのもポイントだろう。独立してある古代美術、シュメール、エジプト、ギリシャ、ローマのコーナーも大変に充実している。ブリヂストン美術館のコレクションをじっくり視るには本当にいい機会だと思う。