水平な場の記憶と未来:武蔵野美術大学優秀作品展

武蔵野美術大学・大学院の卒業生による優秀作品展を見に行っていた。「組立」の会場に、大学院生の小野由美子さんが見に来てくれて、ハガキも別途郵送してくれたので、会期末だったけど見にいった。小野さんの作品はオーソドックスに描写的な庭の風景画なのだけど、「組立」の会場で見せてもらったファイルで気になっていたのは、画家の視点から一番遠くにあるものに焦点があたっていて、その遠くのものを近くに引き寄せるような構造だ。「遠い」箇所が明るく、周囲が暗いので、結果的に一番遠い所が目に飛び込んでくる。


実作を見て感じたのは予想外に大きい画面だったことと、明るい部分の前景化が、単にイリュージョン上だけにかぎらずマチエールにおいても行われている、ということだった。2点出ていた作品のうち、スクエアに近い《光景I》は形式的に言ってこのパターンが最もわかりやすく出ていたと思う。四角のフレームに対し、壁面の奥行がやや向かって右にずれた焦点へ向かって一点透視で伸びてゆき、フレームを反復する形で改めて四角い開口部が現れ、そこに射す陽光が厚く盛り上げられる。つまり最も遠い箇所が、明度的にも物理的にも一番観客の目に近く見える。この作家の、遠くの事物を手元に引き寄せようという感覚が、こういった形式的な構成にどこまで意識的に裏打ちされているか分からないけれど、その曖昧さがノイズにならず、ある含みというか豊かさ、空気感となっているのは小野さんの資質だろう。下手に洗練させると急にマニエリスティックになりそうだけど、「効果」を狙わずに、時間をかけていくことができれば面白い展開がありえそうに思えた。


郷正助氏の作品は「絵画でここまで遊べます」と言えそうなはっちゃけたもので、一つまちがえればある種のダジャレになりそうな気もしたけれども、大学を卒業する段階でここまで軽快に遊んで見せるのには、逆にかなりの知的な積み重ねを必要とすると思えた。絵画をネタ的に扱うのでもなく、かといってペインタリーな感触に溺れるような感じも皆無で、言ってみれば絵画を成立させている様々な要素を個別に切り出しては少しずらし、あるいは何かと接着し、あるいな何かと組み合わせている。木枠にテーブルクロスのような布を貼り、その上に割り箸を貼り付ける作品があるが、ここではテーブルとタブローの二重性がモチーフになっている。


タブローにおけるテーブルの歴史的問題は松浦寿夫氏が何度か取り上げており、この問題系に応答するように先のユリイカセザンヌ特集での平倉圭氏の分析があり、あるいは境澤邦泰氏の「組立」での論考があるけれども、それって要するにこういうことでしょ、とすっぱりリテラルに図解するような郷氏の作品の前で笑いをこらえるのはなかなか難しい。郷氏において、絵画とは窓の暗喩ではなくむしろ逆にカーテンを貼り付けたフレームを取り出してくればそれは「絵になってしまう」ものだ。住宅地でよく見る自転車小屋の、フレームに透明な波板を貼り付けた構築物を分解してその「面」を展示すればそれは「絵になってしまう」。この作家が持っている目は、日常のあらゆる場所に絵画を見出してしまう。だとするならそれは遊びというよりは一種の偏執なのかもしれないが、こういう偏執はむしろとことん真剣なものだろう。その真剣さがもたらす笑いは、意外な緊張感も感じさせた。あと、この展覧会は担当教官のコメントが全てについているのだけど、微妙にピントが外れているなと思わせるものが多い中で、丸山直文氏の郷氏へのコメンタリーはとても適切だと思った。


杉浦環樹氏の論考は「ドナルド・ジャッド:その〈脱中心性〉をめぐって」というもので、いわゆるミニマリズムを代表すると言われるジャッドの作品を、作家自身によるミニマリズムへの抵抗から見直して、そこから逸脱するジャッドをフレームアップし新たに再定義しようという試みで興味深い。作品のすべての部分が明晰であるということは複雑なのだ、という言葉からジャッドへの通念をバラしていく手順は飛躍がなく慎重な分着実で、例えばジャッドの作品が単一なオブジェではなく常に複数の要素で成り立っていることに注目する(それはロバート・モリスとの比較で語られる)。とても説得的で、stackといった作品を経験することは絶えずそこに近づいては離れ、継起的に様々な側面を見ていくことにほかならないことに気づかせられるなど、言葉の修辞やレトリックに頼らずに常に作品に即して考えていくあり方に好感をもった。フリードの「芸術と客体性」のジャッド批判の粗雑さを指摘しつつ、そこで顕揚されたカロの彫刻とジャッドの作品に関係性を認めるところなどは読んでいてとても面白い。図書館の一角でつい一冊読みきってしまった。当然手元に残せず、記憶をたぐるしかないので議論の詳細をここで紹介することはできないのだけれども、なんらかの形で公開してほしい。


デザイン科の作品では可変構造物のパターンをチャートのように展開して見せた大森誠氏の作品が興味深かった。また久保田あゆみ氏の「見せたくないお金」は、賄賂や裏口入学、臓器売買など非合法なお金を包むパッケージをデザインしていて今回一番会場で笑えた(こういった場で「笑い」をとれるセンスは貴重だ)。森洋樹氏の、キャンパスの敷地をガルバリウム板でフロッタージュ(木槌で叩いて凹凸を写し取った)作品は、建築学科の生徒の作品としてはある意味原理的な試みと見えた。


僕がこの学校を訪れるのは藤枝晃雄氏の退官記念展覧会のとき以来で、そのときに比べると建物が多くなったなぁと思った。もっと遡って言えば東京造形大に通っていたころにも来たのだけど、とにかくこのキャンバスが「水平」であることが新鮮極まりなかった。当時の造形大は今の相原ではなく高尾の山中にあって、見事なくらいにキャンパスに平らなところがなかったし、多摩美も似たような斜面の敷地だった。平地といえば上野の藝大だが、ここは狭い敷地に高い建物が林立していて、「水平」というよりは「垂直」な印象の方がつよかった。対してムサビは、平野の住宅地のなかのわりとひろびろとした敷地で、そこに背の低い建物が軸線に対してすっ、すっ、とあり、次々に継起的に現れる感覚が面白かった。ふと、もし映画を撮るならばこのキャンパスにレールを引いて、ひたすら横移動で撮れば面白いのに、と思った記憶がある。ムサビが舞台らしい「はちみつとクローバー」が映画化されると聞いて「これは!」と思ったのだけど、ロケが筑波大と聞いて「わかってないなぁ」と思った。今回訪れて、建物が増えたことで、あの「平らな」感じがちょっと損なわれていたのは残念だった。しかし、学ぶ学生にとっては施設が充実していて存分に使いでがあるのだろう。手続きして入れてもらった図書館は素晴らしかった。