セザンヌのシワ:国立新美術館「セザンヌ―パリとプロヴァンス」展

セザンヌの絵画には時としてシワがよる。無論実際にキャンバスがよじれているわけではないのだが、思わずそれを確認したくなる歪みが画面の上に現れる時がある。国立新美術館でおこなわれているセザンヌ展で、「池」(1877-79)を再見して(2010年に行われたボストン美術館展にも来ていた)改めてそう思った。この時の事は以前ブログにも書いたことがあるのだけど(id:eyck:20100622)、要は「池」において画面中央から右へずれた垂直の樹が、紙を折った時の「山折り」みたいに見える、ということだった。より細かく見れば「池」の歪みも樹の根元で複雑に屈曲していて「くしゃ」っとしている。似たような歪みは1973年「首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ」の下1/6、左側から降りてきた斜面が画面中央へ落ち込んで行く、その入り込む空間でも確認できる。力が集中し「よれて」見えるのだ。このようなシワ状の構造が、画面の一部ではなくかなり広範囲に渡って現れるのが「ビベミュスの岩と枝」(1900-04)ではないか。


「ビベミュスの岩と枝」は縦61cm、横50.5cmの大きさがある。画面下部は向かって左に山形に盛り上がった植物を示す緑の色彩があり、右に岩を示す褐色の、緑よりは緩やかにカーブを描いた色面がある。左の緑は画面上に向かっていくが、そのタッチは右上から左下への短いタッチに変化し、この集積が画面上部中央へ伸びていく。褐色のタッチはカーブを描き積み重なりながら、画面中程で右上から左下へのタッチと、カーブを描こうとする右下へのタッチの混交となる。画面下部から緑の色彩は褐色の部分の、主に影の箇所に侵入しているが、この侵入は画面中程で相互に細かく入れ込むようになり、画面上1/3では、緩やかな傾斜を持ちつつほぼ斑点状にまで分解する。最上部において褐色の色面は急な角度を持ち改めて一定の単位にまで大きくなる。この褐色は一本の緑の線をはさんで画面右上の、切り立った岩の壁と見える垂直・水平のタッチと、下から積み上がってきた緩やかな斜めのタッチを仲立ちしている。また褐色は画面左上にも現れ枝のカーブに合わせたタッチとなる。画面中央から上は緑と褐色のせめぎあいが相当微分化されるが、その稜線を成すように画面上中央から左下へ枝らしき濃い青緑と茶色からなる線が伸び、上下1/2程のところで画面右下へ向かってカーブする。


恐らくは「背景」にある岩の褐色が、「手前」にあるのであろう植物の枝の葉の隙間から見え隠れしている、そういう空間構造になるべき絵だが、まったくそうなってはおらずむしろ明度の低い緑が後退し明るい褐色が前面に出る。そしてその相互が画面中程で微細な単位でまたたくように入り組み、それこそ紙を一度くしゃっと丸めて改めて広げたような、他数のシワのよったような表面を織り成している。この緑と褐色の「またたくような」位置関係の取り替えはけしてセザンヌの恣意的な操作でなく、文字通り眩しい陽光に照らされた岩肌が逆光となって樹木の葉の隙間に「またたいて」いたのだろうと思われるが、セザンヌが特殊なのは、このような現象的な像の現れを、改めて絵画平面上の、絵の具の積み重ねとして再構築し、絵画それ自体の構造として定位しようとするところだ。こういった唯物的な感覚は初期のクールベの積極的な摂取から生まれたことが今回のセザンヌ展では理解できる。言うまでもない事なのだろうが、しかしこういった当たり前のセザンヌ理解の「普通さ」は、作品の個別の「異様さ」に何度も洗われ続ける。荒唐無稽な行為が、いかに無茶苦茶な「絵画」となってしまうかを、セザンヌは飽くことなく確認する。そこで行われるのは「描くという慣習」から、いかに自身の感覚と身体を解き放ち、画面に即して再組織するか、というエクササイズだ。


1973年の「首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ」と、1900-04年の「ビベミュスの岩と枝」の差違はそこにある。「首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ」において、セザンヌはまだ「風景を描く」という慣習的「描き」をもっている。具体的には目に現象する対象の光景の再現的タッチ、斜面には斜めに絵の具を置く。壁には垂直に絵の具を置き、木の幹や枝にはそれに合わせた線を引く。しかし、そのような描きは当然三次元の空間の再構築に際し矛盾を生じる。「手前」の斜面が「奥」に落ち込む、この空間的構造はキャンバスに穴を開けるのでもないかぎり「再現」はできない。「首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ」の画面下部の歪みは、この矛盾が堆積して引き起こされた陥没地帯のようなものとして捉えることができる。蛇足的に言えばこのような矛盾を糊塗せずに露わに、むしろ集中してあからさまにする所に「描く」行為を追い込んでいくセザンヌの「おかしさ」がある。セザンヌはこの矛盾を、対象に沿わず絵画平面に沿った、独立したタッチによって解消しようとする。しかし、今度は画面と対象のズレが絵画面全体に遍在し、画面が砕けたガラスを通したようになるだろう。


「ビベミュスの岩と枝」は、この偏差の全面化がいまだならず、しかし画面の一箇所に矛盾を追い込むようなものでもない、過渡期の試みと言える。画面の「シワ」は画面中程の緑と褐色の入り込みから広がり、かなりの部分を覆うように思われるが、しかし画面下部やあるいは左上の面にまでは及んでいない。それはけして中途半端な作品であることを意味しない。むしろ後年のサント・ヴィクトワール山のシリーズのように、描きの偏差の遍在化、あらゆるタッチが常に独自に「偏っている」作品とは異なった強力な磁場を持っている。対象に沿おうとするタッチと、それがもはや不可能であるような絵の具の現れの狭間で圧縮された「描き」が、画面の中程をくしゃくしゃにし、折り曲げ、また広げる。この繰り返しによって「ビベミュスの岩と枝」は他のセザンヌ作品にもない質を獲得する。このような機会は画家の生涯の中でも稀にしか訪れないのではないか。「ビベミュスの岩と枝」は、いわゆる成功作品ではない。しかしセザンヌに成功も失敗もないのだと思う。一体セザンヌのどの作品が「成功」したというのか。