獰猛な絵画・はい島伸彦「In Melodies」展

なぜ動物なのだろう。はい島伸彦(はいは配に草冠)が3月に出版した絵本「きこえる?」の原画を展示しているMEGUMI OGITA GALLERYの会場で考えていたのはそんなことだ。はい島の絵画は、実作を肉眼で見なければ伝わらない何かが確実にある。印刷物になることが前提であるはずの「原画」であっても、この点はまったくゆるがせになっていない。むしろ、本になった「きこえる?」は、印刷に携わった経験がある人間ならちょっと怖気を感じるほどに「絵画」に限界まで近づこうとしている。その色彩、トーン、キャンバスの目地の再現、テクスチャの柔らかさ。いったいどういった校正を繰り返せばこれほどの神経の行き届いた「画像」が網点で再現できるのか。スペックだけの再現性の高さではない、あくまで人の感覚器官にどのような「質」の信号を届けるのかという観点で作られた「絵本」は、僕が見たことのあるあらゆる「画集」とはレベルの異なる何事かになっている。


それでも、なおかつ、はい島の作品は圧倒的に絵画として自律している。「きこえる?」は、いうなれば元の絵画のポテンシャルの高さの、ある一部のトリミングでありそのリミックといったほうがいいのではないだろうか。例えばはい島の絵には、フラットに塗り込められただけでは作られない柔らかさがある。この柔らかさは単に絵の具の配合だけでも、その塗り込みの丁寧さからだけでも生まれない。今回の作品は全て側面が斜めに内側に入り込んでおり、フレームのエッジが僅かに丸みを帯びて裏面に巻き揉まれている。このエッジの処理が、明らかにはい島の作品の空間を大きく規定している。はい島は絵画平面を生み出すには、その周囲の空間まで操作していくことが要請されることを知っている(だから、同じ会場に置かれているいくつかの「彫刻」は、単にうさぎのオブジェなのではなく、超複雑な形態に変形した「キャンバス」の延長にあるのだ)。


僕はあまりにはい島の絵画をその外から考えすぎだろうか?しかし、はい島において「絵画」は、フレームの外部・内部といった単純な分割を許さない複雑なパラメーターのかりそめの定着点として組織されている。ほぼ正方形に近い画面が異なる調子の水色で水平に二分割されて塗り込められている。その隣に、縦の長さは正方形のものと同じくして横だけ長くされたフレームの作品が、やはり水色で水平に二分割されている。この二枚は、僅かに、しかしひと目でそれとわかるようにトーンを変えられている(正方形の作品がわずかに黄味がかっている)。これだけの操作で、それを見るものの知覚上ではある空間のズームアップがされ、あるいはパンがされる。一定の時間に句点がうたれ、その時間が一定量引き伸ばされる。さらには、まるで構図(コンポジション)だけを見ればある同じ「場」(どうしてもそれは水平線を想起させる)の情景であるように思わせながら、黄味のトーンによって、実はまったく異なった場所(太平洋とインド洋、といったような)のようにも見える。楽器=音源の位置を少し変えることで、オーディオ装置の産み出す時空間が極端に異なってくるように、はい島の絵画は、絵画という形式が要請する筆触、マチエール、テクスチャー、色彩、コンポジション、フレーム、壁面やその周囲の空間といったパラメータを吟味しつくし人の脳内に様々な時空間を発生させる。


このような、一見穏やかに見えるイメージの生成の背後にグールドの録音への偏執に似た過激さを織り込んでいく作家のモチーフとして、何故動物のシルエットが特権的な位置を占めるのだろう。フォーマルに見るならば、それは人物でも幾何形態でもいいはずなのだ。木立が描かれ、その右上に鳥のシルエットが配置される。たったそれだけのことで、そこには木立の中で羽ばたいた鳥の筋肉と骨格の運動、それと木立の摩擦、生み出される音が喚起され、枝葉を突っ切って飛び出す鳥のベクトルが想起され、鳥が木立を抜けた後の静かさが立ち上がる。幾何形体ではこのような複雑な情報はデコードされない。人物では、その産み出す気配があまりに「人の知る世界」だけに限定される。絵画という、恐ろしく人工的(近代的、と言ってもいい)な形式はしかし「人の知覚できない世界」ともある結びつきを、その存在によって結んでしまう。人のいない世界でも音は鳴っている(はい島の絵は唯物的だ)。はい島の絵画に描かれる動物達は、どこかどうしても「可愛くない」。伸び上がるうさぎは何かを警戒している。飛び立つ鳥は何かを目指している。


不注意な人であれば、まるでグラフィカルなデザイン的図案に見えてしまうだろうはい島の絵画には、そのミニマルな佇まいに圧縮されて埋め込まれた獰猛さが満ちている。カッティングされたマスキングの断面の鋭利さに一種の怖さを感じずにこの展覧会の作品群を見ることは難しい。耳を立てるうさぎが全身の筋肉を緊張させ、周囲の環境にあらん限りの神経を張り巡らし、必要に応じて自らの射程距離に入り込んだ対象に襲いかかろうとするように、はい島の絵画は全身を緊張させている。作家と話した時、最近はある余裕を持って制作をしている、という言葉があったのだが、その言葉は決して生み出された作品のテンションの低下を意味しない。武器が研ぎ澄まされた分、それを見るものの死角を見逃さないし、あらゆる角度から飛びかかることができる。余裕、という言葉はそのように理解されるべきだろう。