確信的な謎・境澤邦泰展

境澤邦泰の絵画は、わからない。無論、それは境澤の絵画の「質」についての疑義ではない。むしろ圧倒的な「質の高さ」自体が大きな謎として立ち現れてくるのだと言っていい。境澤の絵画には不明瞭なところなどない。むしろ、絵を見るという行為に慣れてしまっている人ほどひと目で「分かって」しまうかもしれない。すなわち複数のぶれるタッチの絶え間無い積層によるブラックアウト(というよりはグレーアウト)の痕跡である、と。このような理解は、しかし実際の作品を前にした時の経験、そこで引き起こされる事態を説明していない。この作品がなげかける謎は例えば作品の制作過程を仔細に聞いたところで、実はまったく解消されない。たしかに境澤の作品の制作の方法は独自のものだが、手法と作品はイコールではない。繰り返し画面を見る。近づいて見る。離れて見る。正面から、斜めから見る。木枠に織り込まれた側面を見てみる。座って見る。立って見る。一度作品から目をそらし、時間が経過してからもう一度見る。わからない。しかし、ここには何か決定的なものがある。決定的?一体なにがどう決定的なのか。


武蔵野美術大学gFALには、大小様々な大きさのキャンバスに油絵具で描かれた作品が並んでいる。会場に入って左手の壁面には、こぶりのキャンバスに、細長い平筆による四角いタッチが数個、束ねられたように置かれつつ、画面に基底材の余白を見せている。その配置から、おぼろげに菱形の形象が感じとれる。3点並んでいるそれらは、徐々に密度をましているように見える。その真向かいには、今回最大の出品作が架けられている。画面下方にはかろうじてタッチの痕跡、あるいは流れ落ちた絵の具の跡があるが、中央部辺りでは画面はかなりグレーの層が覆っている。この相対する壁面を結ぶ、入口正面の壁には大小いくつかの、およそ画面が均一に塗り込められた作品がある。これらの作品を「発展段階」として見た途端に観客は肝心な所から足を踏み外している。展示は作品の進行状況を順次説明しているのではない。単に、個々に、個別の作品としてあるだけなのだ。会場は繊細に全体が構成されているが(例えば作品はどれも壁面から少し浮かせて、壁面から独立するように架けられているし、照明は備え付けのものではなく作家が持ち込んだものだけが使われている)、それは観客の理解を助ける為の配慮ではない。作品が、作品としてありうべくあるように配置される。この空間は作品の為だけにある。


タッチが明示的に残る作品は、実にミニマルな、そして厳格なリズムを刻む(楽器を叩いた跡、または現代音楽の譜面のようだ)。輪郭のはっきりした、3つか四つくらいのタッチがより合わされて画面に配置された作品は、キャンバスの白と、濃い青、茶、ベージュといった色彩が緊密なコントラストを織り成す。そこでは画布の白が鮮やかに輝いて見える。このことは境澤の作品に重要な意味をもつ。キャンバスの白が跳ね返す眩しい光を、絵の具層によって遮り、濾過し、屈折させ、迂回させることで境澤の絵の明るさ・暗さは形成されている*1。だが、それが果たして「目指されて」いるのか。タッチが僅かに残りながら、しかし画面の多くが潰れていっている作品は、画面全体が不思議な膨らみとして見えてくる。画面中央が魚眼レンズで見たかのようで、キャンバスの四隅が引いていっている。この膨らみは均一なものではなく、なにか暗闇の中で開かれた身体の内蔵を触っているかのような柔らかさ、触覚的な感覚としてある。この膨らみには独特の時間の感覚も含みこまれているように思う。押し入れの中に閉じこもった子供の頃、光が失われると視界には残像のような色とりどりの色斑が現れ、それを追っているうちに、体内的な時間感覚が不均一に感じられる。自分がどのくらい閉じこもっているかわからなくなってくる。それに似た感触がある。ほぼグレーに塗り込められた作品は、一見フラットさを持つように見えるがやはり画面隅はやや落ち込んでおり、不活性な中に僅かに下の層のマチエールを残している。タッチがないにも関わらず、このようなマチエールの存在によってこれらの作品は厚みのある皮膚のような物質性を獲得している。


床に白い布を置く。その布は任意の折り重なり方をしている。キャンバスが壁あるいはイーゼルに架けられる。画家は布を見る。その見た記憶を保持してキャンバスに視界を移す。キャンバスの矩形の一点に、記憶に残された布の姿、その例えば折られた箇所にできた濃い影をマークする。キャンバスから目をそらして再び布を見る。再びキャンバスに向かう。この時既に最初のキャンバスに打たれた一点はもうずれている。それを修正するように二つ目のタッチを置く。以下、繰り返される。結果、画面には「正しい」タッチが置かれることなく、限りない修正、ズレの痕跡が積み上げられていく。透明なガラスの向こうにモチーフを置いてなぞるのではない。常にモチーフと画面の間を往来しながら画家はいわば間違い続ける。ある場所を手持ちのカメラで写真にとり、それを何度もくりかえす。生成された画像を無数にコンピュータ上で重ねあわせ続けると、写された対象はシャッターを切る度のズレによってどんどんボケていくだろう。そしてその画像はいつしか全体にぼんやりした光の固まりになるだろう。境澤は単一のレンズではなく二つの肉眼で対象を見ておりこのようなたとえは不適当(というより間違い)だが、おおよそ境澤の作品で起きている事の粗い模式にはなっているだろう。では、そのように撮られた無数レイヤーのボケた写真は、出力すれば境澤の絵のような「質」を獲得するかといえばそうではない。境澤の作品の「像」を生成する、その道筋に謎はない。謎なのは、そのような、営々と繰り返される非人間的行為の持続が、なぜマニエリスティックな様式に陥らず、その度一回ごとの生々しい試みとして定着していくのか、ということだ。


境澤は半ば本気で、折り重なった布をキャンバスの上に完璧に移し替えようとしているのか。端的に言って視覚のズレを記録し続けるという結論先取的な態度でこのような試みが持続されるとは信じられない。いや、画家が絵を描くのではなく、絵画が成り立つためにその道具として画家というものを要請するのだという作家の言葉に沿って言えば、世界を絵画に移し替えるのではなく絵画が世界を再措定するのだ。世界を創造し続ける絵画?誤解を招かぬように繰り返せばそこでは「作家」は絵画による被造物である。いや、そこでの画家はむしろアスリートに近いのかもしれない。棒高跳びの選手が、未だだれにも越えられたことのない高さのバーを絶対に超えて見せると信じて、毎日ほとんど同じ(しかし細部は毎回全部異なる)跳躍を繰り返すように、画家は絵を描き続ける。そこでは当たり前だが「絶対にある高さを超えることができる」という確信の元にしか「質」を持ったズレの積層は形成されない。絶対ズレないタッチが置くことができると確信して置かれたタッチのズレと、タッチはズレるものであるという結論から置かれたタッチのズレは確実に異なる。デリダがテクストを徹底的に正確に読もうとして、しかしその正確さへの欲望それ自体が不可避的に誤読を産んでしまう*2ように、境澤は徹底して正確なタッチをその都度絶対に確信し、その確信の強さによって不可避的にズレを生産してしまう。


と、このように書いて見て、境澤の絵画の「質」は了解されたのか。されないのだ。境澤の絵画は、奇妙な言い方だが揺るぎなく震えている。その振動に、見るものは自分の視覚を奪われてしまうような錯覚に陥る。その感覚に対し防衛機制が働くのは自然なことだ。でもそのガードをゆっくり下げて見たとき、信じがたい衝撃が襲う。思わず出た「わからない」の一言は、もしかすると最後のガードなのかもしれない。

*1:古谷利裕は境澤の絵の「光」について記述している。http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20101009また、上田和彦による指摘も参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20101007

*2:浅田彰によるデリダの「誤配」の説明より。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/index.html#comment