切る・折る・巻き込む(世界を)/益永梢子展 Symphony

Gallery face to faceは吉祥寺の、駅前から少し歩いた住宅街にあるのだけれども、やや高い基礎に沿った階段を上がりつつ、ガラスの扉の向こうの益永梢子の作品が見えた、その時にもう来て良かったと思った。押し開くように小さな会場に入って、オーナーの山本さんに声をお掛けして(置いてもらっている「組立」の本の納品に来たのだ)、少しお話をしながら、目はおおよそ益永作品ばかりを見ていた。少なくとも意識は作品に吸い寄せられたままだった。このような作家がいるのか、という驚きは、山本さんにファイルを見せて頂いて、過去の作品のバリエーションを知ってからある種の納得にも変化したけれども、やはりどこかに、より大きなインパクトになって残ったとも思う。作家や作品にとって時代とか、状況とか、そういうことをどうでもいいのだと思う程僕はナイーブではない。同時にそういう環境の中で、尚且つそのようなものから離床する作家というのがいる。益永梢子はそういう作家だと思う。


益永の作品は色面が塗られ、線が引かれた画布を切り、折り、曲げ、それを壁面に「掛ける」ことで成り立っている(あるいは切り、折り、曲げた画布に絵の具を置く)。「掛ける」方法はいくつかある。直接ピンで固定されているものが多い(パネルや木枠のようなものはない)。またあるものは衝立状の壁に「引っ掛け」られている。あるいは吊るされている。あるいは角に沿って曲げられている。あるいはアクリル板に挟まれ床と壁のL字空間に立てかけられている。一枚の画布がカッターかハサミで切り取られ、アクリルによって彩色され、線を引かれる。それがまた切り目を入れられ、折られ、曲げられ、あらわれた「裏面」にも彩色され、線が引かれる。出来上がるのは小さな、あるいはそれほど小さくない、キャンバスによる簡単な折り紙のようなピースで、壁に上記のようないくつかの方法で固定された作品達は、しかし絵画という次元から僅かにはみ出している。益永の作品は、明らかに空間を含みこんでいる。丸められた画布は中空部分を持つ、折られた画布は厚みを持つ。しかし、ではそれは彫刻なのかといえば、彫刻の次元からはやはり僅かに引っ込んでいる。


益永の作品は依然として「薄く」、壁面の、ある高さを要請している。だが、それは壁面への依存ではない。どのような作品も世界の一部であることをやめることはできない。やめているように見える作品は(つまりモダンな「自律した」作品は)、一定の所作において世界の一部であることを隠しているにすぎない。益永の作品は自らが世界から生まれ、世界の一部でありながら、世界と対等にハーモニーを奏でる能力を持ったことを喜んでいるように感じられる。まるで生まれた子供が歩くことを覚え、手を使い草木や虫や動物と関わりあうことができるようになってはしゃいでいるかのように。展示において、複数の作品の関係を考えない作家はいない。だがここでは、益永の作品がより積極的に相互の網目状のネットワークを形成している。そのようなことを可能にしたのは、やはり、四角い木枠というフレームがないことが大きいと思う。それはステラのようなシェイプドキャンバスとも異なる。シェイプドキャンバスはいかに複雑な形態をしていようと、その縁において世界を切断する。益永の、画布を切り取り、折り曲げ、畳み込みといった所作は、その動作それ自体がキャンバスの周囲の空間を「巻き込む」。この巻き込みこそが益永の作品の豊かさになっている。


メビウスの輪は平面か立体か。こういう言い方がややすり切れたレトリックに見えてしまうとしたらそれは僕の言葉の貧困のせいであって、益永の作品を見ていれば通常なんのこだわりもなく「平面」とか「立体」ということばで世界を文節している、その粗雑さに気づかざるをえない。筆で一つ、絵の具の痕跡をつけた、それを「面」と呼ぶか「線」と呼ぶかで、その痕跡自体の性格と関係ないある制度が機能してしまう。同じように、益永の作品を見れば、ある作品を眼差すその形式が、いかに慣習に統制されているか気づく。その認識こそが作品の新鮮さに繋がる。無論、益永の作品は言葉の象徴的次元から切り離されているわけではない。むしろ実に言語的な構築が見てとれる。ただその構築が紋切型に収まらない程度に複雑なのだ。益永の作品では「裏面」、つまり壁面に接して観客の目に見えないところにまで線が引かれているが、それは結果的に目に見えないという理由で無駄なものになったりしない。それが見えるか見えないかは線にとっては重要なことではない。線が引かれるその論理においてそれは存在したのであって、それが視覚的な効果を成すかは二次的な問題だ。益永の作品は実に目に心地よいが、それは観客の目に奉仕しようとして生まれた快楽ではない。絵の具の色彩や粘度、乾燥、マチエール相互のひびきあい、地の出た画布、ひかれた線、壁に止めるピンに至るまで、すべてのマテリアルの関係が適切であるからこそ、結果的に心地良さを醸してしまうのだと思う。


益永の作品を見て、岡崎乾二郎の初期作品、「あかさかみつけ」に代表されるピースの群を想起するのはそれほど不当なことではないだろう。ある板が切られ、折られ、各面に色彩が施された岡崎の作品はやはり壁面に設置され、絵画と彫刻の狭間に立っていた。筆者はかつて岡崎の作品を2.5次元の作品と呼んだが、岡崎の資質もあってそれらは彫刻の方に軸足が置かれていた。端的に言って「あかさかみつけ」のシリーズは、壁面からの立ち上がりが大きい。マッスを持ち明快な各面相互の分離構造を持っている。そういう岡崎作品に、確かに益永の作品は呼応する何かを持っていると思う。だが、比較すれば益永の作品は絵画の方に近い。益永の作品における面の文節はむしろ明快な折り目、きっちりと直行した接線で切り分けられていない。強い折り目を付けられている時ですら、柔らかで厚みのある画布はその「折り目」自体がある幅を持ったカーブを描いてしまう。緩やかな巻きになっている場合は、それこそどこまでが「表」でどこからが「裏」なのか、面を文節する箇所自体が一つの面を成す。だからといって益永の作品は岡崎の作品に比べて未分化なのではない。むしろその様な文節の幅を持ちながら尚且つ作品全体が実にこれしかない、という明晰さに満ちていることが驚きなのだ。2.3次元?2.25次元?あるいは2.2次元くらいから2.8次元くらいまでの幅?無論このような比喩的表現は恣意的なものだが、いずれにせよそのようなゆらぎ、幅が曖昧さではなく、その含みこみ全体が構築を進める知性となっている。そういう意味では、岡崎乾二郎のさらに初期の作品、布を切り、折り、縫い、パネルに張り込んだ作品群に近いかもしれない。


思わず知性、と書いたが、ここでの知性とは思弁的なものでなく、制作それ自体に見られる思考のことだ。布を切る、絵の具を溶く、それを塗る。線を引く。また布を切り、折り曲げる。そういった所作の一つ一つがプランに支配されるでもなく、使用目的に従属もせず、市場原理からも切り離されている。いわば「状況」がかっこに入れられた場所で、しかし適当にいい加減になされるのではなく、いわば遊びの倫理ともいえる正確さを持って遊ばれる。いつでも大人を棚上げできる、十全な大人こそ成熟した大人なのであって、その意味で益永の冷静な手つきこそが大人のものだと思う。益永は作品の周囲に新しい「状況」を生みだす。Symphonyと展覧会は名付けられているが、ここでは交響曲というより字義通り複数の要素の相互作用という意味合いに取られるべきだと思う。音楽的な連想でいえばむしろドビュッシー室内楽のようだ。


※明日と明後日に会場でアーティストトークが予定されているようです。