絵の具の可能性のコア・いわき市立美術館 野沢二郎展

絵画は一瞬で評価されるという作家本人の言葉を乗り越えるように、いわき市立美術館で行われた野沢二郎展は見る者に十全な「受け止め」を求めているように見える。一般の展示室ではない、一階ロビーの階段側面に73×61cmの油彩画が9点、等間隔に架かっている。その奥の僅かに開けたスペースに、227×182cmの大作が6点、壁面から突出して半円を描くように設置されている。いずれもキャンパスに描かれている。紫がかった、あるいは茶色がかった褐色がいくつかの明度の差を持って平滑に画面を覆う。方向としては上下、あるいは左右に伸びており、斜めの動きはほとんど見られない。それらの上にこれは筆か、あるいはナイフなのか判別し難いのだが、白の絵の具が部分的にタッチとして置かれ、それが恐らく乾燥しきっていなかったのだろう下の平滑な層と混ざり合うようにして何かの徴のように置かれている。73×61cmの作品の中で二点、大きな白地の中に褐色の班があるものがあり、また227×182cmの作品の中に一点、鮮やかなブルーが配された作品があり目立つが作品の構造は同じだと言っていい。


展示環境がプレーンではないことは、この作品群の見え方に影響を与えている。壁面は濃いベージュの細かい凹凸のついた石板であり、床面もまた磨かれながらもやはり凹凸のついた石板である。この色彩は野沢の作品群の褐色と明度が近く、73×61cmの作品の中の、白が基調になった二点以外は周辺の空間と色調として大きなコントラストを作らない。では、野沢の作品が空間に溶け込み埋没しているかといえばそうではない。確かにトーンとしては設置空間と呼応しているものの、その存在感自体は明確に、くっきりと周囲から浮かび上がっている。これは基本的には73×61cmの作品のかなりの厚みをもったパネルの浮き上がりと、227×182cmの大作の半円を描く突出した設置による物理的な要素によるが、しかしそれだけに還元されない。いわば作品のイメージとテクスチャーの緊密な「立ち上がり」が、見るものの視覚の中で作品の輪郭を描くのだと思える。


特に大作を半円に弧を描くように突出させた展示作品ではっきりするが、ここで野沢の作品は、個々の画面の中の像/イメージを個別に(それだけを取り出して)見せようとしていない。ではそのインスタレーション性自体が問題なのかといえばそうでもない。絵画の表面、その質が突出=現出している。その結果としてこの展示がある。徹底的に引き伸ばされ、何度も積層され、おそらくは時に削られ、また積層された絵の具層は、その滑らかで穏やかなテクスチャーの中に強靭な弾性とも言える抵抗感を持つに至っている。まるで極端に拡大されたカーボンナノチューブの断面を見ているかのようだ(リチャード・セラの作品のようでもある)。野沢二郎は、ほとんど偏執的なまでの油絵具との「戦争」、あるいは「交渉」によって、油絵具というひとつの「モチーフ」の性能の限界を引き出すことに成功しており、結果としてここでは絵画が絵の具の臨界として組織されている。野沢の作品には「水影/雨」といったイメージ喚起的な題がつけられているが、これはいわき市立美術館の平野明彦が指摘するようにあくまで作品が出来上がった後の、事後的な『ニュアンスの総体』として付けられている。つまり『イメージの払拭する地点から制作を開始しようとしている』。この指摘は重要である。


野沢二郎の絵画において、画面の「中」の像、イメージはあくまで事後的に、たまたま、いわば仮設的に現れたものにすぎない。ごく単純に言って、個々の作品の制作途上において、その「像」は常に仮定的なものであり、そのどの段階で提出されても観客は実際に今回展示されたものとの根本的な差違を見いだせないだろう。また、この先展示が終わった後で、もしこれらの作品に手が入れられ「像」が大きく変化しても、作品のアイディンティティは揺らがないだろう。ではどこにこれらの作品を「完成」としたジャッジの基準があるのだろうか。それは恐らく、引き伸ばされ削られ積層されていく絵の具の表面が作り出すマテリアルの立ち上がりが、仮に浮かび上がった「像」と、ふとした関係を形成した瞬間にあるのではないだろうか。だから、野沢の絵画において「像」は確かに事後的なものだが、無意味なものではない。私たちは絵の具の組成が野沢の描きによって何一つ変化していないことを知っている。それは顔料を油で練ったものであり、それ以上でもそれ以下でもない。繰り返される野沢の絵の具との交渉が引き出すのはあくまで人の眼に届く光の集積としての「像」であり、そこでの「マテリアルの立ち上がり」も、結果としては像として現れたものだ。だが、かといって野沢は最初から結論先取的に「そう見える像」の形成を目指したりしているのではない。そのようなことをした瞬間、モチーフとしての「油絵具」は野沢の手からすり抜けていく。


「美しい像(イメージ)」を演出する、視覚効果に特化したものを「絵画」と呼ぶならば、あるいはそのような「良い絵」を欲望するのならば、もしかすると野沢の今回の展示は奇をてらったものに見えてしまうかもしれない。しかし、野沢における像の現出が、油絵具という奇妙な、その歴史的重層性と裏腹な無根拠さ(例えばなぜ野沢の絵画はアクリル絵の具ではいけないのか)をひたすら問いかけるような描きの中で受胎し分娩される、一つの生き物としてあることを了解するとき、その展示も、個々の作品世界も、全てが明快に了解される。野沢二郎の絵画作品が空間と対話しつつ屹立するのはその表面の皮膜一枚が生み出す像に込められた力にすぎない。しかし、その像のなんと強力なことだろう。そしてなんと滑らかで柔軟なことだろう。ここでは激しいテクスチャーの荒々しさは遠く引いている(野沢の90年代後半の大作群が達成したある頂点においては、そのような荒々しさがたしかにあった)。


厳しく訓練された身体が軽やかに滑るモダンダンスの極限において人体という奇妙な可能性の中核が露呈するように、野沢の画面上での絵の具のダンスはその可能性のコアを見せる。このような試みが2012年の夏、福島第一原子力発電所から42kmという場所で行われたことを、僕は確実に記憶しておこうと思う。



ニュー・アート・シーン・イン・いわき
野沢二郎展──花片/近景の水
2012年7月21日(土曜日)〜8月26日(日曜日)