「Physical Kinetics」における大山エンリコイサム

Takuro Someya Contemporary Artでの二人展「フィジカルの速度 / Physical Kinetics」で見た大山エンリコイサムの作品について。大山のメカニカルペンシルで描かれた、紙面を覆う均一で、しかし緻密な線の集積を見たとき、そこに看取されるのは、高い集中力と非人体的な動き、腕-手-手首-指のコントロールだ。現在、線から身体性を抜くことなど簡単だ。デジタルデータとして一定のプログラムを設定し描画された線を出力すればよい。だがこれは単に身体を別の棚にしまってしまっただけで、その実日常の生理の総体としての身体はそのまま温存されている。大山のドローイングはそういうものではない。ある意識的制御によって日常的な生理、慣習的動き、そういったものを切り離すことで浮かび上がった新しい身体の痕跡だ。


大山の線にはまったく「ドローイングらしい」ブレやかすれや揺れがない。しかし明らかに身体が描いた線であるというテンション(張力)がある。と同時に、というかその非人間性において大山の新しい身体は、文字通り線が引っ張っていく力として紙面上に肉体そのもののの切断面のように開示される(スライスされた筋肉組織のようだ)。方法的な身体による、慣習的・生理的なものからの離脱。興味深い、と言っていいと思うのだが、大型キャンバスにコンテ、墨、スプレーで描かれた絵画作品は成功していない。形式的に言えば、ここには墨のたれ、スプレーのかすれ、塗料の染み込みという描画以外のコノテーションが多数含まれている。言ってみれば、描きの身体の運動それ自体は十分日常生理的な箇所から切り離されているにもかかわらず、恐らく意図的に残されたたれや染み、かすれが「絵画的」なコノテーションに作品を結びつけているのだ。今回の大山のキャンバス作品を見れば直ちにそこにはポロックやマーデンといった名前が想起され連結される。このような「結びつけ」は大山の作品をむしろ単純に見せてしまう。大山の最も攻撃的なシーンはあくまで「切り離し」において現れる。ドローイングが優れているのはそれがいかなる「絵画的」コノテーションにも結びついていないからだ。


この切り離しは、大山自身が言及するストリートアートのひとつの機能でもあるだろう。ビルの壁面に、鉄道の高架に、扉に窓に描かれるストリートアートは、時として信じがたい場所(絶対に手の届かない高所、あるいはそもそも入り込むことの禁止された場所)にサインを残すことで、その描き手を縛っている様々なコノテーションから描き手を切り離す(実社会で彼・彼女がいかなる立場でも、サインの残し手としての彼・彼女はそこから「切り離され」る)。同時に描かれた橋脚や壁は単なる公共財や建物といった文脈から切り離され様々なサインの基底剤となる(さらにそこに上書きされるサインによっていわば大きな意味でのコミュニケーション空間となる)。しかしストリートアートは描き手を様々なことから切り離すだけではない。別の何かに結びつける。たとえば自分を「反抗者」というタグに結びつけることは、自動的にさまざまなコノテーションで自分を規定することになる。大山はこのような「結びつけ」を遠方へ先延ばしする(というかそのような先延ばしによって真価を発揮する)。言ってみればストリートアートの政治的あるいは社会的側面をばっさり切り離すことで大山の作品は成り立っている。そのことは、今の段階では批判されるべきことではない。むしろ、大山はその切り離しによってこそ路上の線のスペック、武器としての強さ、速さ、射程距離を磨き上げ純化していこうとしている。強力に濾過された線はどこへその切っ先を向けるのか。この点は注意深く観察する必要があるだろう。


発泡スチロールで作られたブロックを2M以上積み上げ固定し、現場で熱したワイヤーで上から下へ切断してみせた立体作品は、この作家の意外な可能性と視点を示している。シャープではありつつ、けして工芸的に磨き上げられていない斜めに大きな曲線を描いた切断面は、視覚的には実に「早い」印象を与える。巨大な力と鋭利な刃物で、例えば樹木を鉈で割ったかのような速度と力を感じさせる。しかし実際の作業は熱せられた金属線が切れないように慎重に、ゆっくりと行われる。生成された線、面が与えるフェノメナルな「速度感」と、実際の作業でその線や面が形成された現実の「速度」の乖離は、大山の作品の指標として考えることができるだろう(タブロー絵画が今ひとつ上手くいっていないのは、キャンバスに残された線・面が与える視覚的速度と、実際に描かれた速度の乖離が比較的小さく感じられる事にも現れている)。この立体からは大山の所作が、いわゆるストリートでのものというよりは、剣道のような武道的な「構え」なのではないかというイメージが伝わる。都市空間に現れた現象的武道家、といった佇まいは緊張感に満ちている。色彩の排除はこの作家にとってけしてスタイルの問題ではなく、恐らく「線の速度」に関わる本質的問題だが、その点も含め続けて見て行きたい(とはいえニューヨーク移住が決まっているようで、今後どの程度国内で追うことができるか分からないのだが)。