追記
大山エンリコイサムさんからtwitter上にて以下の応答がありました。僕の理解の足りない点を指摘した上で御自身の意図を解説していらっしゃいます。ご一読ください。
さて永瀬恭一 @nagasek さんのブログを読みました。まずは丁寧な記述と分析力に感謝します、ありがとうございます。そして内容の8割については、批評的でありながら制作者(私)の実感も捉えているし、仮に捉えていなくても生産的な視点を採っていると思いました。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
とは言え残りの2割です。やはり「大型キャンバスにコンテ、墨、スプレーで描かれた絵画作品は成功していない。」と断定されてしまうと、一言、応答しなければならないと思います。先に断っておくと、これは「成功していない」と言われたことに対する感情的反論ではなく、構築的議論を目指すものです。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
永瀬さんの主張は端的に言えば、僕の作品の特徴は、種々のコノテーションまたはタグ付けから切り離されており、言わば意味が洗い流され漂白された「描線の実質」のみを舞台にのせる点にあるのに、件の大型の絵画はあまりにも「絵画的」過ぎ、即座にタグ付け可能であるのがつまらない、というものです。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
永瀬さんはそれを「大山のキャンバス作品を見れば直ちにそこにはポロックやマーデンといった名前が想起され連結される。」と表現します。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
しかしここには実はリテラシーの問題が深く結びついていて、たしかに「ポロックやマーデンといった名前が想起され」るかもしれないのですが、同時にグラフィティのリテラシーをもつ人が見れば、そこにたとえばワイルドスタイルというグラフィティ・レタリングの造形要素があることがわかると思います。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
この点にまず僕の狙いがあります。これまでアートの世界におけるグラフィティ文脈の受容のされ方は、ざっくりいって「ポップなもの(バスキア/ヘリング)」または「ポリティカルなもの(バンクシー)」という線しかありませんでした。しかしこれはグラフィティやストリートアートの側の実感とは(続)
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
(承前)異なる部分があります。「社会のなかのオルタナティブなもの」という役回りではなく、それこそそのような意味づけから解放されて、純粋に新しい抽象的な造形言語としてグラフィティのヴィジュアルランゲージを扱うこと、そのための接続先として、言わばモダニズム絵画の文脈というのが(続)
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
ありえると考えています。それは単に「ポロックやマーデン」なのではなく、ポロックやマーデンあるいはトゥオンブリに、グラフィティの描線をオーバーラップさせることで、グラフィティ文脈の拡張と、絵画空間の拡張の両者を同時に試みるものだと思っています。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
さらに一言添えるならば、バンクシーは、たとえばこのような「絵画のリテラシー」と「グラフィティのリテラシー」のギャップこそを主題化する、言わばリテラシーの越境に長けた作家です。それはコンテクストゲームとしての現代美術にしっくりはまる。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
僕の場合はそのようなコンテクストゲームではなく、クイックターンの描線の加速によって、キャンバスも、壁画も、ドローイングも、ホワイトキューブも、コムデギャルソンの服も、あらゆるメディアとそのコンテクストをグラフィティの描線が拡散的に駆け抜けていくような創作をイメージしています。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
バンクシーがパズルとパズルのピースをはめるようにリテラシーや意味の操作で作品を作るとすれば、僕の場合はパズルの大小さまざまなピースを、クイックターンの描線がそのつど摩擦を引き起こしながら横断していく。その時の大小種々のピースのいくつかにポロックやトゥオンブリィもふくまれます。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
だからぼくの創作はまさに、コノテーションからいったんは切り離され、意味が剥ぎ取られたクイックターンの描線が、種々諸々のコノテーションやタグとぶつかりながら駆け抜けていくという、その摩擦においてこそ、着地します。しかしもちろん次の瞬間には既に新たな描線が駆動し始めているのです。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012
誤解を恐れずに言えば、永瀬さんが「大山のキャンバス作品を見れば直ちにそこにはポロックやマーデンといった名前が想起され連結される」と言うそのリテラシー自体を、もうひとつのグラフィティのリテラシー、というか描線が、飲み込んで置き去りにしてしまうというイメージです。連投失礼しました。
— Enrico Isamu Oyamaさん (@EnricoLetter) 9月 11, 2012