映画「アトモスフィア」

映画「アトモスフィア」について。映画の結末についてのネタバレを冒頭にしていますので、未見の方はご注意ください(結末を知っているのと知らないのとでは途中の見え方が異なると思います。僕としては未見の方は読まないほうがいいんじゃないかと思います)。


映画『アトモスフィア』予告編



主人公である夫婦の妻は、物語の最後に死ぬ。なぜ死んだのだろう。そもそも本当に死んだのだろうか。この問いは意外に複雑だ。彼女の死自体は描写されない。この映画を見終えたものは、作中で流れる講演で街の成り行きと自分の妻、あるいは夫婦の関係について語っている男性が、物語上での「夫」だと思う。しかし、講演の声は夫の声と別人である。映像では、夫婦の暮らす街ヴィララクティアへの送電が絶たれる夜、夫婦の、死んだ子供が生まれたと仮定した百物語が終わり、送電が止まった(部屋の明かりが消えた)シーンが映る。講演の声は、送電が絶たれた夜、自分の妻が死んだと語る。この連続によって、いかにもこの映画の主人公夫婦の妻が死んだかのように見える。だがそれは本当なのか。映像と音声の関係からではこの問いに応えることが原理的にできない。


音声、言葉と映像の関係はこの映画においてある焦点を成している。言葉で語られる内容と、映画の画面に映っている映像を結びつけることに実は根拠がない。だがしかし、その結びつきは解除しようとしても解除できない。人には耳から入る信号と、眼から入る信号を切り離して同時に処理することは困難だ。


音声と画面が強力に結びつき、以後の音声と映像の関係の無根拠さを押し流してしまうのが、妻の文字起こしの仕事が描写されるシーン、音声が流れ、その内容がパソコンのモニターに文字として浮かび上がるシークエンスだ。ヴィララクティアに関する基本的な設定は、講演の音声データが文字として画面に映ることによって文字起こしする妻と、講演する男性が同じ街にいると(いつの間にか)印象付けられる。また、妻が過去に経験した流産とその後に見る夢は、同じように文字起こしの素材として送られてきた音声データと文字の関係で緊密に結び付けられる。ここで音声と画面は完全に一致する。


《こんな夢を見ました。自分の娘を殺す夢です。》


この文字は(映)像でありながら、意味である。この例外的な映像と言葉の一致は、以後この映画における音声と映像の「契約」として機能する。


「アトモスフィア」には繊細な編集と脚本によって複数の社会、あるいは夫婦、男女、地域といった多層的な問題設定が積層している。だが、その基底に基本的な「無-関係」が見えるように思う。それは映像と言葉の「無-関係」であり、夫と妻の「無-関係」だ。「無-関係」が対立として明快に現れていれば話は単純だが、この映画はぎりぎりまでその対立を遅延させる。映像は冒頭、文字を写すことによって言葉とある共同性を結ぶ。郊外に住む男女は結婚という形式を踏まえることで「夫婦」となる。結果、理解できないお互いを延々調停し続けることになる。この終わらない調停が、映画全編を覆う緊張に繋がる。この映画は演出として様々な手法で不安感を醸すのだが、こういった効果は恐らく「アトモスフィア」において本質的なものではない。本来決定的に相容れないものが、それをずっと押し隠しまるで受け入れ可能であるかのように振舞っている、その奥底に堆積し続けるフラストレーションがどこで「空気」にひび割れを入れるのかという予感が、作品を駆動させるエンジンになっている。


原発事故、流産、高い放射線、寂れてゆく郊外都市といった様々な事象が、柔らかな共同体を形成していた一組の夫婦の間の齟齬を浮かび上がらせ、拡大してゆく。彼・彼女は次々と退路を絶たれていく。夫の友人は街を去り、その引越しの場面で夫の感情を深く傷つける。妻の唯一の外部への切開の希望だった「自分と同じ夢を見る女性」は、驚くべきことにあっさりと会うことができ、凡庸な解釈を語ることで幻想としての機能を失う。この映画は文字通り「アトモスフィア」=空気、つまり見えないものについての映画だが、そのお互いに「見えない」ものが構築していく圧倒的な苛立ちが、確実に憎悪の形態をとりはじめる。根本的に異質であった二項が、ある形式(映画であり、結婚である)が生み出す「夢」によって、逆説的に相互の無理解と結びつきの無根拠さに出会ってしまう。一度露呈した無根拠=無関係は、そもそも夢を見なければなんでもなかった筈だが、それが一度「夢」という形式をとってしまったがゆえに、無根拠=無関係はそのまま裏切りになる。


夫は妻の裏切りに報復する。映像は言葉の裏切りに報復する。逆も同じである。舞台のヴィララクティアへの送電が止まった後、「妻が死んだ」と講演する声が夫の声と異なることに気づくとき、この映画のドキュメンタリー性は崩壊している。たとえば、映画において言葉と映像が一致する、その最も基本的な形が登場人物の語りだ。何かを話す、その口の動きと同期して音声が流れる。ここで言葉と映像は素朴なマリッジをしている。しかし、そこにわざわざ語りが字幕としてつけられたとき、この素朴なマリッジに奇妙な齟齬が忍び込みはじめる。それは本当にそのように語られたのか。「アトモスフィア」では夫婦の会話がいちいち字幕で出される(別に聞き取りづらい会話ではない)。この擬似ドキュメンタリーの手法はそれが擬似であることにおいて「真実性」を補強せず、むしろ反対の効果を発揮する。それはこの映画がフィクションである、という言わずもがなのことではない。言葉と映像の基本的な無-関係に夫と妻の無-関係が重ねあわされる。


だから、映画の最後、夫と明らかに異なる声で「妻は死にました」と語られたとき、観客が確かにあの、スクリーンに映っていた「妻」が死んだと納得するのは既に音声と映像の幸福な結婚を信じてのことではない。相容れない二項が同じ「夢」を見ようとしたとき、そこに生じるのは絶望と憎悪であることを了解するからだ。「妻は死にました」という言い方は微妙である。自殺であるなら「妻は自殺しました」と言うはずなのであって、「死にました」という言い方は既にその場面において(夫は)妻を対象化している。つまり「夢」は終わっている。僕の理解では、確かに「アトモスフィア」の物語を紡いだ妻は(「妻は死にました」と語る講演の音声とは関係なく)死んでいる。単純な自殺ではない形で。無論、彼女の心は、生まれてこなかった夫との間の子供がもし生きていたら、という「夢」を百物語しようと夫に提案した段階で死んでいたのだけれど。


最後にベタな事を言ってしまえば、福島第一原発の事故以降、その様々な影響や不安に起因した摩擦は、確実に「夫婦」という特定の関係性に対し独特の作用をしたと思う。僕自身が妻と子供との間に一時期かなりの緊張関係を持ったし、二歳の娘さんを持った友人は建てて一年の戸建住宅を放棄して引っ越した(まさにこの映画のモデルとなった茨城県守谷市の住人だった)。そういった経験を積んだ人に、この映画を必ず見てほしい、とは言いづらい。簡単に言えばこの映画を見ることで、最近落ち着いた(関係の亀裂が糊塗された)夫婦たちに、新たな緊張が高まる可能性がないとはいえないからだ。もっと踏み込んで言えばこの映画を見て離婚する人が出てきたって不思議ではない。「アトモスフィア」は必ずしも主題やモチーフだけに還元されない複雑さを孕んでいるが、しかしやはり、原発事故以降の郊外に住む夫婦、そしてそこで行われる妊娠-出産-育児(再生産)という、いわば近代の終末点にある、恐ろしくセンシティブな被写体をクールに、単純化せずに捉えた稀有な映画だと思う。


※10月7日(日)に改めて上映がある。メジャー作品ではなく、ディスク化される可能性も低いから、関心がある人はこの機会を逃してはいけないと思う。