類似と非類似のインフレーション/「空似」展

子供がいて、その両親と、両親の友人達がいる光景を想定せよ。友人の一人が、子供の顔が母親に似ている、という時、その子供の顔には母親の顔が重ねられている。そこへ別の友人が「いや、目もとは父親に似ているかも」といえば、母が重ねられた子の顔の目もとに、父親の目元が重ねられる(しかし、そこで母親の面影は完全には消されない)。更に「でも全体の感じは父方の祖母に似てるとも言われる」と父親が言ったとき、その子供の顔には、友人達の見た事の無い“父方の祖母”の面影が到来する。このとき、“父方の祖母”を知らない友人達の脳には、今ある子+母+父の目もとのトリプルイメージから、漠然とした“父方の祖母”が推測的に抽出され、それが再帰的に今ある子+母+父の目もとのトリプルイメージへさし返される。その重層性はイメージを曖昧にもしてしまい、子供の顔は一気に誰にも似ていない、独自の顔になる。時間や空間が近くの、あるいは遠くの箇所を行ったり来たりする。〜は〜に似ている、という事態は、時に複雑怪奇なイメージを形成する。


現代HEIGHTS「空似」展で行われたグループショーは、こういったイメージの編目状の往還関係を、しかし過剰に緊密にではなく、ある種のゆるさの中に立ち上げるような面白みを持っていた。ここで「作品」はそれ自体として存在しながら、どこかでふと隣や向かいや斜めにある作品にいわば「声をかけて」いて(facebookでいうところのpokeみたいな感じ)、声をかけられた作品はそれを「聞いたり聞かなかったり」している。また「空似」展では作品を設置するという行為が大事に(それでいて神経症的ではない)されている。作品が、個物として置かれることと想像的なイメージは切り離されていない。まさにそこに「置かれた」、その所作が作品のイメージの一部となっている。


吉雄介の作品は、LEGOブロックを組み合わせたもの及びブリキで作られた様々な小型のピースが、壁に設置された棚板の上に配置されている。個々の作品は何となく家のようであったり、乗り物であるように見えるし、同時に子供の玩具のようでもある。ここではサイズの二重化が起きている。家や建物である(大きい)ようにみえるものが、玩具でもある(小さい)ものと並ぶ時、同じ一つのブリキの家は実際の大きさの中に想像上の建築のスケールも、うっすらと持つ。そして、この棚上が棚でありながら町のように見える。その時、会場全体がいわばギャラリーでありながら街のようにも見えて来る。吉雄介の作品が棚に置かれるように、会場には様々な作品が置かれていて、この相同性が一見閉じた小世界(ミニチュアール)のような吉の作品を会場全体にオーバーラップさせ、結果として会場を外の街の空間へと連結するのだと思う。現代HEIGHTSは東北沢の住宅街の道を縫った、半地下の店舗のさらに奥にあるのだけど、吉の作品はその道のりに繋がっている感覚がある。


荒井伸佳の作品は、木材による「ぎざぎざ」、山脈状の三角の連なりを複数のバリエーションで見せている。一つは壁面に何種類かの合板を尾根のように繋げて設置したもので、モノが置けない棚のようだ。またその壁面から、突き出すように上部が三角を連ねたような木材が出ていて、下部にチェーンが弧を描く様に付けられている。家の連なりのようにも見える。その下にはやはり木材が二本積層されていて、断面が「ぎざぎざ」になっている。棚状のものはギャラリーの備品に似ながら、壁から突き出た作品はある種の工芸品のようでありながら、床に設置された作品は作品以前の素材のようでありながら、全てそれぞれにズレてしまっている。そしてその全体が巨大な山脈のイメージを内包している。荒井の作品は彫刻であるととりあえず言えるが、その彫刻は自らが置かれる基底である「地面」の起伏を想像させる。同時に2点は実は床面に置かれず宙に浮いている(壁から突き出た作品から下がるチェーンに注目せよ)。彫刻の条件のようなものを考えさせられる。


末永史尚は三角、あるいは四角の小型のキャンバスに描かれた絵画をいくつか組み合わせている。黄色地に茶色の斑点を描いた複数の三角・四角のキャンバスは床近くで繋げられていて今年の干支の蛇のように見える。また、壁面の角に、縦に延びるように設置されたキャンバス群は、平滑な地の上に細い幅の帯が引かれている。旗、あるいは帆を想起させる。いずれも明らかにテキスタイルの模様(ヒョウ柄であったりチェックであったり)を拡大したような図像で、これが複数のキャンバス(これもまた「布」を木枠に張ったもの)へと移されている。また、ギャラリー空間の前にある店舗スペースの棚にはやはり三角のパネルかキャンバスに、これはコミックの記号的な形象と思えるものが、白地に黒で描かれている。既成の印刷イメージがペインティングとして再展開されているが、面白いのはキャンバスが「四角」ではなく「三角が組合わさったもの」として提示される(例えば前後に三角の作品を連結された四角のキャンバスは明らかに二つの三角の繋がったものに見えて来る)ことだと思う。末永作品の前で、絵画の矩形は既存の美術史における「四角性」を解除され、三角形の多様な組み合わせへと開かれる。これはステラのシェイプド・キャンバスとは全く異なる絵画のフレームへのアプローチだ。


冨井大裕はポスターを丸めて下端を万力で固定し、上部に靴下を被せた彫刻を2点並べている。ほぼ相似でありながら、それぞれに靴下の色が違い、ポスターの内容が違い、万力の色(銀と黒)が違い、万力の締めるハンドルの位置が違う。ここでポイントになるのが靴下で、かかとに当たる部分が鳥のくちばしのようにぴょこっと前に出ているため、全体がどことなくウッドペッカー的なキャラクター性を持っている。痩せたハンプティ・ダンプティといった趣もある。以前行われたAGAIN-ST展でも冨井は複数の既存のものを組み合わせた彫刻を出していたが、その時に比べてこの「キャラ」の立ち上げはより強くなっている。冨井の作品で面白いのがもう一点出展されている、路上の電信柱とブロック塀の間に積まれたゴミ袋の写真で、これに「置かれたもの」といったような意味の題(正確な題は失念)が付けられていた。この、絵画も有りながら全体に「モノが設置されている」感覚、視覚的イメージというよりは基底材を含めた彫刻的状況が前に出ている展覧会で、唯一最も視覚的な作品が「置く」という行為を強調している。作家の悪意(稚気?)が感じられる。


上野慶一は描かれた黒い円が2/3程覗き見える様に、キャンバスを穴をあけた金属の箱や布で覆う、あるいはキャンバス上にその覆うようなイメージを絵の具で描く、という作品を並列している。ここで実際に穿たれた穴、あるいは描かれた「穴」から覗く2/3程の黒い円は、どことなくキャラクター的な「目」に見えるが(スマイリーフェイスのような)、しかしその黒はフラットな黒ではなく明らかにタッチを残されている。ポップというよりは不気味な感覚を与えるが、この不気味さは「目」の描きだけでなく上野の作品構造全体から発せられているように思える。つまりそれはキャラクタ−に似ているようで似ていないし、絵画に似ているようで似ていないし、商品に似ているようで似ていない。ロボットやサイボーグ等が人に似ていながらどこか「似ることができない」ポイントで発する違和感が「不気味の谷」と呼ばれるが、上野の作品も絵画の、あるいは平面イメージの「不気味の谷」を意図的に産んでいる。作品が「空似」展のイメージと連結していて、この展示の結節点となるような位置にいる。


吉の作品は棚という接点で荒井の作品に「似て」くるし、冨井の作品と末永の作品は「置かれる」感覚で繋がる感じがあり、荒井の作品と末永の作品は「三角」で応答しあう。上野の作品と冨井の作品は「キャラ」性でどことなく関係し、荒井の作品と冨井の作品と吉の作品は無論「彫刻」という接点を持っていて、上野の作品は末永の作品と「絵画」という接点を持っている。そして、それは、似ているかもしれないが、しかしやはり同じではない(似ていない)。つまり「空似」である。一度この蜘蛛の巣のような「他人の空似」的関係性に気づくと、ある作品を見ているとき、そこに別の作品のイメージが折り重ねられる。その折り重なりから、ありもしない想像上の何かが到来しそうにもなる(あくまでその気配くらいだけれども)。別室のドローイングやスケッチが置かれている小スペースにラフなあみだくじのメモのようなものが張られていて、この展覧会の配置がランダムに(チャンス・オペレーション的に)決められたように示されているが、それが疑わしく思えるほどの展示と言える。作品が置かれるレベル、つまり床から壁の低い箇所、高い箇所、中程、そして会場外の棚(高い箇所にある)が互に連携し、それを見る為に観客はかがみ、首を延ばし、作品に近づき、また離れる。こういった動きはきっと搬入で作家もした筈で、展示が搬入・搬出という労働を消去していない(一般にそういった痕跡を消し去る事が「きれいな展示」と評価される)。つまり観客が作家に似てくる。深読みと言われればそれまでだが、少なくともそのような想像を掻き立てられる展覧会だった。展示は終了している。