古谷利裕さんへ(ベーコンに関して)の応答。その2

20日の記事に対し、古谷利裕さんから応答頂きました。こちらも前回同様興味深いです。


まず、隙間・ブランクの論点に関してですが、古谷さんの15日の記事中、部分的にわからなかった点を僕からお尋ねして、それに丁寧に応答頂いたにもかかわらず、これを古谷さんが主要な論点としているとお返事してしまったこと、お詫びします。繰り返しますが、古谷さんの設定されたこの隙間・ブランクの論点はとても思考を喚起するものでした。


また同時に、今回のお返事でこの隙間・ブランクもひとつの要素としつつ、古谷さんがベーコンを(とりあえず今回の展示での50年代の作品に限って)フィールドと人体の関係性において積極的に見ていらっしゃることもおよそ理解できたように思います。とくにフィールドと人体の関係に「線」を見出している点において興味深い。この線への古谷さんのご指摘(「肖像のための習作IV」で教皇が座っているイスのフレーム、背景の立方体をつくる線など)へのお考えは、改めて上田さんを交えてお話できたら面白いと思います。


ただ、やはり僕には十全に理解できていない点があります(これは説明しろ、ということでは全然ありません。恐らく、以後の文章も含め「分からない人間には分からない」という事だと思うので)。


例えば、

ベーコンの 絵の面白さの一つに、前述したように映像的な感覚を絵画において実現しているというところがあるように思われます。映像的な(映像を再現する)絵画ではなく、絵画があくまで絵画として成立しつつ、映像的な感覚を表現している(イメージを映像的に立ち上げている)、というような。


とあります。が、僕には古谷さんが出された「ベーコンの描く人体のイメージ」、具体的には「外が暗くて、室内が明るい時に、窓ガラスに映っている像」等は、「映像的な(映像を再現する)絵画」ではないにしても(何しろ絵画は動かないですから、映像そのものには見えません)、映像と隣接する「写真的な(写真を再現する)絵画」なのではないかな、と見えます。


「ベーコンの描く人体のイメージ」を、絵画的な仕掛け、それは場のしつらえといった構成的な所から、ベタにキャンバスに絵の具で描いている、といった特徴までを踏まえれば無論それは「絵画的」なのですが、この「絵画性」はとくに積極的に見えません。上田さんとの対話でも発言しましたが、ある時期以降絵画に頻出する(それこそリヒターに代表される)いわゆる“映像的”な絵画の、時期的には若干先行するかもしれない例以上のものであると、古谷さんも特に述べてはいらっしゃらない。映像を一度止めてそれをキャンバスに写した効果以上のものがあるように見えない、ということで、これは僕の理解ではベーコンが最も嫌がった評価なのではないでしょうか(別にベーコンに気に入られる必要もないでしょうが)。それがガラスに写った像、という二重性をもっているというのは面白い点ですが、この面白さはリヒター以降、既に歴史的、博物的な(つまり時期的に早い段階でやったという意味での)面白さだと思います。


結果的に僕には「ベーコンの描く人体のイメージ」の、古谷さんがおっしゃる“ある種の強さ”は、単純に心霊写真、あるいはホラー映画(映像)の1カットの強さとしてしか見えない(連続するフィルムの1カットを抽出して見せたように)。あえて「一瞬の不意打ちによって可能であようなイメージの強さ」を固定した絵画として持続的に見せている、と言えるとしたら、それは内容のスカスカさ、イメージの薄さとまったく拮抗していないキャンバスの「物理的な大きさ」によってのみ支えられているようにみえます。これはなんら奇跡的なことではなく、いわば会話の途中で文脈に関係なく突然大声を出して人を驚かしている、というのと同じです(そうすると「像」ではなく「エフェクト」としては、ベーコンは心霊写真やホラー映画ではなく「お化け屋敷」に近い)。


ベーコンの絵に感じる不満の一つが、キャンバスが「内容に対して無駄に大きい」ことです。その意味で、カタログ図版は全面的にベーコンにとってマイナス、というのではなく、このフレームと内容の弛緩した関係を覆い隠す効果があるように思います(今回展示を見た人のうち、事前に画集などでベーコンを知っている人で実作を見てその密度の無さに「あれ?」と思った人が一定数いると思います)。これはあまり上手くいっていないニューマンやロスコらの作品に感じる不満でもありますが、もしベーコンが形式的に抽象表現主義的作品と似ている点があるとすれば、他の箇所も含め「弱さ」=弱点においてであるように見えてしまいます。以下、あまり細かく反論するのも生産性がないだけですのでやめておきますが、上記のような印象を踏まえると、僕はベーコンと初期ゴーキー、あるいはマチスとの関係は納得することができませんでした。特にマチスは、図版や画像で比較するとつい並列に考えてしまいますが、マチスの実作のフレームとの緊密な関係を念頭においた時(単純にベーコンとマチスの実作をふたつ並べてみたと想像したとき)、首肯できない。ベーコンを肯定的に語る人の多くは図版を元にして語っている(フレームとの関係を、小さな図版で圧縮して考えている)のではないかという疑いが今回の展観でよぎったことの一つです。


形式の外の主題的な問題としての人体ですが、確かにポロックと逆だと思われます。そして「逆」であることが重要であるように思えます。クラウスはポロック論「ジャクソン・ポロックを読む、抽象的に」で、以下のように言います。

「イメージ」を弁証法的構造へ吸収し、そうして空間に拘引された記憶も他のすべての要素と同じ抽象のレベルを取るようにするということは、ポロックの作品において一定していることである。輪郭それ自体(それは形象を生じさせる形式的手段である)がポロックの成熟期の芸術の主要な視覚媒体であったというばかりでなく、より重要なことは、一年たりとも(1950年が例外ということはあり得るが)、形象/非形象の二元的対立とはっきりと関わらずに制作したことはないのである。つまり、オールオーヴァーの絵画にあってさえも、非特定的な形象をその線的母体(マトリックス)の中に浸透させたということである。私たちは、1948年の〈サマータイム〉、1949年の〈蜘蛛の巣から〉、あるいは1953年の〈オーシャン・グレイネス〉を思い起こしさえすればよい。

それはあたかも、このイメージの現前のより豊穣な感覚が−いかに姿を変え、いかに掴みどころがなくとも−それまでの作品に常に内在してきた《主題》の条件を強調するかのようである。この意味で、これらの絵画ははっきりと、抽象絵画とは無主題−装飾−であり、主題とはなんらかの対象を描いたものでなければならないとする二者択一的観点に抗うものである。


僕はポロックの作品における線は、恐らく常に(クラウスは1950年は例外としうると言いますが、僕はそこも含めてしまっていいと思います)ポロックにおける主題、それはトーテム的形象、また多くの場合身体の「輪郭線」としての性格を“いかに掴みどころがなくとも”持っていた、故に晩年になって唐突に人体のような形象が現れたのではなく、それはずっと「非特定的な形象」として持続的にあったのだと(クラウスに即して)思います。端的にポロックにあるのは絵画内要素の(クラウスによれば弁証法的な)対立構造です。

色彩に対する線、場に対する輪郭、非物質的なものに対する物質。このとき出現する主題は、対立するものの同一化という一時的な統合である。すなわち、線が色彩となり、輪郭が場となり、そして物質が光となるように。(前掲文書)


ポロックには形式と主題との緊密な(描きに内在した)関係がある。反転して見たとき、ベーコンに様々な興味深い、時に抽象表現主義的でもある細部、あるいはまた様々な仕掛け−しつらえ(それは映像の二重性から場の構築まで)があったとして、僕にはそれら相互の関係性、主題まで含めた関係性が上手くつかめません。ポロックにおいて形式と内容は様々な位相を通し、また年代によって変化しつつ、上田さんが言うところの「闘争関係」を見せます。ベーコンではそこがぺらぺらと分離し、あるいはまた弱く接着しています。そういった緊密さに欠ける部分をとりだし、それぞれを興味深い切り口で語ることができたとして、しかし個々の要素の総合的関係がつかめないのは(僕の認識力に原因があるのかもしれませんが)恐らく、ベーコンにはこれらの関係性自体が弱いのだと思います。


例えば「教皇のための習作IV」では、ステインされた色面の中に大雑把なストローク教皇の身体-衣装が描かれ、その密度が増していった中心に(手癖っぽい)顔が描かれます。このとき、教皇の座る椅子の造形は恐らく意図的にキャンバスのような単純な形をしていて、半ば画中画であるように見える。こういった「しつらえ」の面白さから色んな話はできるかな、と思うのですが、ではここで主題と形式が描きにおいてどのように関係しているか、と問うた時、その関係はむしろバラバラに崩落するようにみえます。僕の考えではこの「弱さ」は恐らく彼のデッサンの「弱さ」と構造的にリンクしています(というか、その函数)。


無論、弱さが強さに「劣っている」わけではない。むしろ、弱さがそれ自体としてモチーフとなっている絵画は僕は積極的に評価します(例えば初期のトゥオンブリなど)。ところがベーコンは、この「弱さ」を設計(しつらえ)によって「要素」であるように見せている=手癖っぽい所作を技術であるように見せている。ベーコンを面白く見るにはこの二重三重に留保された「弱さ」から生まれる「隙間」あるいは「ブランク」を積極的に見ることが必要なのだと思うのですが、僕にはどうしてもそこに無理があると思えます。あえて言えば、様々な要素が強固な意味(コード)を持たず、半浮遊状態で散乱している。しかしそれは脱コードというよりコード未満と言うべき状態に思えます。


古谷さんが「ベーコンは、一見、孤高の作家のようでいて、実は様々な傾向が交錯している交差点のような存在なのかもしれないという風にも感じられた」とおっしゃられるのは了解できます。ベーコンの「他者の像」の気配、古谷さんが喚起的に「動物が自分のテリトリーに侵入してくる未知の個体の気配に対して感じる警戒の感情」とおっしゃっている所も面白い。ジャコメッティが関係しているというのも賛成で、言うまでもなくそこでは距離(の差)が重要なモチーフになってくると思います。確かにもうベーコンだけでは話が膨らまないと思うので、いわばここでベーコンをプラットフォームとして(あるいは「空港」として)使いつつ、ジャコメッティ、あるいは他の作家(先に古谷さんが書かれたニューマンのジップとベーコンのトリプティックの「隙間」の差異は是非お聞きしたい)について(もし古谷さんにお気持ちがあれば)お話したいと考えています。