古谷利裕さんへ(ベーコンに関して)の応答。

18日の記事に対して古谷利裕さんが応答してくださっています。とても面白いので、是非ご一読ください。


ここで示されている隙間、ブランクに関する古谷さんのお考えは刺激的です。元になった「組立-転回」のベーコン展に関する対話(http://kumitate.org/)に対し、古谷さんからの15日の「穴とブランクを混同している」というご指摘に関してはよくわかりました。正確には混同というよりはここまで見事な切り分けはしてなかった(未分化だった)という事になりましょうか。この論点だけで、いろんな絵や映画、映像まで考えが及ぶ、とても魅力的な論点だと思います。


以下は、ちょっと生産的とは言い切れない「反論」−というかベーコンの面白さが分からない人間の愚痴?−になってしまうので、斜め読みしてください。その上で、何かしら古谷さんにとって有意味な(あるいは必要な)ことがありましたら、お聞かせください。


僕が感じる疑問は(上田さんに繰り返し述べていることと同じになってしまうのですが)、この古谷さんのご認識の面白さが上手くベーコンの個別の、具体的作品につながらないことです。古谷さんは「五十年代のベーコンの作品にみられる、あのスカスカな人物像やスフィンクスを描くタッチとタッチとの隙間は、そのような隙間(ブランク)として作用しているのではないかと思いました。」とおっしゃっています。成程、そのように言われて見れば、僕にもそれは理解できます(そういった要素を五十年代のベーコンの作品のいくつかに見ることは可能だと思います)。しかし、これをベーコンの貴重さに結びつけるのには弱くはないでしょうか。率直に言えば、このくらいの「隙間、ブランク」の徴候は探してしまえば結構な頻度で様々な作家の作品に見いだせてしまいます。ぱっと安直に思いついただけでもフランケンサーラーが挙げられます(http://www.artsjournal.com/aboutlastnight/2008/11/tt_holding_pattern_2.html)。むしろベーコンの「弱さ」が重要なのだ、ということであれば、またもう一段論議が求められるはずです(単純にフランケンサーラーとベーコンの違いについて述べることは簡単なので、その上でベーコンの貴重さをどこに求めるかが問われる)。ホックニーのジョイナー写真は、これはまったくベーコンより強く効果的で、これが基準になるならばベーコンの説明にはならないくらいです(またホックニーのグリッド構造はベーコンのそれとはどうにも繋がらない。グリッドを無視してブランクの効果だけを抽出して考える、というのは無理があります)。この流れであれば、まだゴダールの方が素直に理解できる。実際、古谷さんの示されたお考えに対しては例えばポロックの方がずっと適切に当てはまってしまう(http://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1965-0008.html)のではないでしょうか。僕の理解が浅いのかもしれませんが。


10日の古谷さんのベーコン評を読んだ時に感じたのは(前回も少し書きましたが)、この評価だとちょっとベーコンの「描けなさ」が半端に目立ってしまう(ならばニューマンのように全然描かないほうがいい)。場の強度に貫かれている身体、ということなら、もっと積極的な要素で組み上がるべきで、手癖の強い「下手」なデッサンでやる必然性がないわけです。モダニズムを踏まえた観点からベーコンを高く評価する、というのは今回の展示意図から見てもよく分かる気がするし穏当だとは思うのですが(こういう評価はこの展覧会で固まるかもしれない)、僕にとってはちょっと喚起力に欠けてしまいます。その点で、先日古谷さんが指摘されたカラーフィールドペインティングとの差異(『「色面」と「線」と「イメージ(人体)」という異質な三つの要素が混じり合わないままあって、それらが違う角度で、というか、違う時間軸で、ザクザクザクッと交錯しているように見えるところ。』)であれば少し面白みがイメージできたわけです(それでも、僕から見ると、だったらリヒターなりポルケなりでもいいのでは、と思ってしまうのですが)。


もし応答いただけるのであれば嬉しいですが、面倒であればご放念ください。また、上田さんとメールで「(古谷さん次第ですが)3人で改めてベーコンから話してみてもいいかもね」というやりとりもしています。書くのが面倒、でも何か言いたい、ということならばご検討ください。