手遊びとその切断/<遊ぶ>シュルレアリスム展
損保ジャパン東郷青児美術館で<遊ぶ>シュルレアリスム展。見るものが沢山あって、解説が沢山書いてあって、だから展示を見るのにとても時間がかかる。ちょっと前後の繋がりがよく分からないことがあって(植田正治の写真とかが急においてあって、そりゃ砂丘上のオブジェの配置とか「なんとなくシュルレアリスムっぽい」とは思うけど、しかしそこにどのような文脈があるのか、と考えてもそんなに明快な話はなく「なんとなくシュルレアリスムっぽいから」みたいな解説があるだけだったりする)、けして広いとは言えない会場に結構な人数の観客がいるし、おかげでとばしとばし、順路を守らずに見ることになって、いったり来たりしながらぶつぶつと作品を見て、解説を読んで、となる。昭和の感覚が残る損保ジャパンビルの美術館フロアは天井が低く空間として快適、という感じではないし、なかなか疲れる。それでも確信をもって言える。<遊ぶ>シュルレアリスム展は僕がこの施設で見た中では最も充実した企画だ。
美術館の、シュルレアリスムを堅苦しく美術史的に語るのではなく、子どもの遊びみたいなところ(監修者の巖谷國士のいう手仕事=プリコラージュ)からシュルレアリスムという奇妙な、幅の広い美術運動を捉えたほうが、より状況の核心に触れられるのではないか、という提言は明快だ。僕自身ははシュルレアリスムという運動は特に非西欧圏では徹底して分かりにくいはずだと思う。なので今の日本の社会での「シュール」という言葉のポピュラー化には疑問があるが、そのポピュラー化の内実はいわば「不思議の大安売り」みたいなもので、無意味にかつ浅薄に「わからなさ」を売りにしていたりする。しかし、この展覧会の親しみやすさはそういったものとは基本的に異なる。誰もが経験したことのある手遊びの感覚から、その延長上にシュルレアリスムを置いていて、「でもその先に認識論的な切断があるはずじゃないか」という留保はしたくなるものの、実際に新鮮に作品群が見えてくる。
少なくとも夏休みの、ファミリー向けの美術館の企画としては十分上質なものではないだろうか。実際そういう客層が多く見られたし、フロッタージュの体験コーナーとか子供向けのワークショップも開かれている。この展覧会の「親しみやすさ」からすこし深入りすれば、すぐにそこには独特なシュルレアリスムという(実は一元化できない多面性をもった)出来事の「わけのわからなさ」は口をあけているのだし、そういうものは展示されている作品にも十分溢れている。たとえばフロッタージュのワークショップに参加した人は、自分の生み出したフロッタージュと、展示されているエルンストの作品の「質」の差に嫌でも気づくだろう。同じような技法(しかもその技法は知ってしまえば子どもにもできる技法だ)から、何故そのような差が生まれるのか。「作品」の抵抗に出会ったところから思考は開始されるはずだ。作品展示が若干見づらいのも質の高い作品が多くあるためだともいえる。パンフレット代わりの書籍は図版が小さくレイアウトがあまりといえばあまりなので(この本だけ作りなおしてはくれまいか)がっかりだけど、そんなに細部に突っ込みを入れながら見る展覧会ではないはずだ。
最も光って見えたのはマン・レイで、「手・光線」(1935年の作品を71年に再制作)はアイコンとしても優れた作品に見えるし、やはり写真のキレは圧倒的だろう。デュシャンのロトレリーフとそれを実際に回した映像は先に埼玉県立近代美術館で見ているが、再度見ても生理的にめまいがしそうになる感覚が面白い。ジャコメッティが小品とはいえ一点出ていたのは収穫だったし、ピカソの油彩二点も(シュルレアリスムとの関係はこの作品では薄いと思ったけど)見ることができてよかった。意外だったのはハンス・ベルメールのデカルコマニーとフォトグラヴューユの作品で、この作家のこういう作品は初めて見た。また岡上淑子という人のコラージュはたしかに優れていて、僕はまったく知らなかったのだけど、1950年代の短期間だけ活動したらしいのだが印象的だった。
第一室で「友人たちの集い」と題されて、シュルレアリスムに関わった人々がサークルのような人間関係の中で、相互のやりとりと作品をつなげていった過程を見せているのだけど、こういうやりとりが既に「孤高の天才が単独で神業的な作品を作る」というルネサンス以降の美術パラダイムへの批判的なアクションになっていることがよくわかる。そしてそのようなアクションが、いわば仮説的な共同体、既存の社会関係や権力関係からちょっとわきへずれた「遊び場」の行為として生成している。「甘美な死骸」はブルトン、タンギー夫妻、ヴァランティーヌ・ユゴーが互いに言葉遊びから一枚の絵を作っていった作品で、1933年頃に作られている。この時代が第一次大戦後の、様々な政治的緊張感に満ちていたという背景を考えれば(そのことには会場では触れられていなかったけれど)、こういった作品は急にある種のアクチュアリティを持つように思う。2011年に国立新美術館で行われたシュルレアリスム展で示されたように、この美術運動は第二次大戦後も長く続いているので、特定の時代背景だけに結びつけることはできないけれども、しかしいわば「立ち上がりの時代」が、両大戦間であったことは一応念頭においておいていい。