悲しい夢・「私をとりまく世界」展の奥村雄樹(井出賢嗣)

いない人物を作り上げる。いない人物を、社会の諸関係の中に位置づけ、名前をつけ、複数の、不特定の人物にその存在を感じさせる。それはそれとは反対のことも引き起こす(かもしれない)。不在の人物を存在させることで、実在の人物を仮想化してしまう。「この人がいるのだとすれば、実はこちらのこの人物はいないのかもしれない。あるいは、少なくともその存在を疑う契機にはなるかもしれない。もしかして、全くこの場で存在を疑われもしない、ある特定の個人は、本当は「いない」のではないか。そう想像してみただけで、私の脳の中でその人物は急に影が薄くなり、存在の危うさが明らかになり、ふと亡霊じみたあり様に代わってしまう。


トーキョーワンダーサイト渋谷で開催中の「トーキョー・ストーリー2013 第三章 「私をとりまく世界」」展に出品中の奥村雄樹(井出賢嗣)(このように表記されている)の作品では事態は多重に構成されている。死体から不在の人物を造形した作り手が怪物と化した被造物もろとも死ぬというフランケンシュタイン物語を素材にクレイアニメインスタレーションを作ったKuki Nishinoという作家を架空に作った「井出賢嗣」と“横暴な”指示をする「奥村雄樹」という作家を、更に架空に造形した井出賢嗣あるいは奥村雄樹。この多重性は私を過剰な「外部」へと連れていくことになる。この外部はなんら事実関係の裏付けを必要としない。言い方を変えればベタに奥村がインストラクションを井手に与え、ベタに怒った井手がこのような作品を作っていたとしても結果は変わらない。問題は作家の意図や事実関係ではない。私は作品の開示する時空間にだけ関心がある。


会場入り口に書かれているのはKuki Nishinoの名前とその展覧会名「亡霊と言語についての記録:1978-2012」である。まずここでKuki Nishinoの名前が過剰に大きく書かれていることは注意を必要とする。また、カッティングシートを使った、実に「美術ギャラリー的」な、あるいはちょっとした公立美術館の企画展展示でなされそうな、デザイン的に洗練された(あるいは美術業界のコードに沿った)ビジュアルでそれがなされていることも。端的にこの展覧会のほかの出品者に関しては簡易なキャプションしか配置されていない。トーキョーワンダーサイト渋谷は公民館(区民館)の一部を利用している空間で、建築的にはまったく美術館・ギャラリーの文脈に沿った空間になっていない。その中でここがある一定の質的判断をした展示をする場であることを示すアイコンは、会場に至る通路に記されたこの会場の名前の表記だけである。Kuki Nishinoの表記は、あきらかに会場全体の「看板」であるトーキョーワンダーサイト渋谷の通路の表記と呼応している。要するにKuki Nishinoの名前は意図的に強調されている。


会場は二つに分割されており、一つにはプロジェクターで映されたクレイアニメ、壁につるされた数枚のドローイングを綴じたもの、台座に置かれた歪んだ金属板とガラス容器、その中と外に粘土片、壁にドローイングを額装したもの、高い位置の棚に靴が一足、クレイアニメが映った壁の下には(恐らくフランケンシュタインと想像される)男性像のドローイング。また映像の前にいすが一脚あり、その足元に鉛筆が一本落ちていた(この鉛筆が作品の一部かは疑問に感じた)。映像はほぼ全編モノクロだが、ごく稀に瞬間的にカラーになる。背後のついたて上に置かれたスピーカーから、断続的な「ぼっ、ぼっ」という音がするが意味はなさない。クレイアニメは実にラフに作られていて、また登場する人のような形をした像も、かろうじて人だろうとわかる程度の造形しかされていない。物語は判然としないが、首のない横たわった粘土像の上に別の粘土像が奇妙な道具状のものを出現させ、またその像に首を与える。首を与えた像は本のようなものを持っている。与えられた像は動き出し、与えた像となんらかのやりとりをする。注意すべきは背景に写真が貼り付けられており、そこには一組の男女が映っている。また英語がプリントされた背景もある。


別の部屋にはKuki Nishinoについて英語で話す外国人とおもわれる人の声が流れている。話者とそれほど仲良くないKukiは、ある日アメリカンヒーローのようなフランケンシュタインがプリントされた服を彼の元にもたらす。話者はそれを数回しか着ない。なぜならその服はあくまでKukiのものだったからだ、というようなナレーションの日本語翻訳が映像には写っている(またナレーションは途中で急に途切れその間は翻訳クレジットだけが表示され続ける)。映像には片方の部屋にかけられていた綴じられたドローイングを描く手の様子(この映像は一貫して手を撮る。急に人体の一部の極端なクリーズアップが映るが徐々にカメラが引いて車のハンドルを操作する人の手であることがわかる。)、クレイアニメの設置作業と思われる過程、妙に生々しい、まるで人糞のように見える質感で作られるクレイ、そのクレイで汚れた台紙にまたドローイングする様子、クレイアニメの背景に使われていた男女のモノクロ写真が壁に張られそこに日本語でキャプションを書き込む手が映る(つまりここでこの映像に映っている手は語り手ではなく恐らくKukiだろうと想像させる)。合間合間にカッティングフォントの型となるのだろうKukiの名前が機械でカットされる様子が映る。映像の最後には井出賢嗣の名前がでる。


会場で私が受け取った紙には奥村雄樹による趣旨説明が書いてあった。いわく自分が選ばれたバーゼルへの滞在制作で、同じ選考で落とされた井出賢嗣のことをときどき考えていた。そこで滞在制作参加者を対象にした今回の展示では、井出賢嗣に“バーゼルに行っていたとして作られたであろう作品を制作せよ”という指示を作品とした、とあった。続けて井出賢嗣によるステートメントがあり、落選者にこのような指示をするのは落選者を馬鹿にしている。そこでKuki Nishinoという友人に出品を依頼したところ展示ができるのであれば、という事で作品を提供してくれた、とあった。


会場で私がまずしたことは持ち歩いていたiPhoneで、Kuki Nishinoなる人物を検索することで、ある程度想像されたとおり有意な検索結果は出てこなかった。次に検索したのは井出賢嗣の名前で、こちらはきちんと実質のあるwebサイトが表示された。奥村雄樹に関しては何回か作品を見ていることもあり、またtwitter上での発言も日常的に目にしている。つまり継続的にそのキャラクター(個性)の存在を認識しているわけだが、半ば段取りのように名前を検索するとやはり実質のある情報の載ったwebサイトが確認できる。私は井出賢嗣も奥村雄樹も面識はなくいわば情報としてしか判断はできないが、思考の効率性から考えて少なくともこの二人は実在している。


インスタレーション全体の意図は明快だろう。最初の部屋をAとすれば、過剰に美術展的にクレジットされたKuki Nishinoの名前があるAにはKuki Nishinoの作品(とされる)作品がある。後の部屋をBとすればその部屋には(奥村のインストラクションを横暴と感じた)井手が、Kuki Nishinoの作品制作過程を映しKuki Nishinoについて語る外国人のナレーションをその映像に被せて自分の(つまり井手の)名前をクレジットして映している。このような構成がフィクションであることはきちんと作品中に示される。端的にB室でドローイングをしている手は途中で「バーゼル バーゼル バーゼル…」と紙に書き、その後「バーセ」の部分を黒く潰し、ぜの濁点とルだけをのこしてそれをまた線で囲むシーンがあるからだ。このバーゼルという地名に結びつくのはKuki Nishinoではなく井手である。なんのことはない、B室に写っていた、A室のクレイアニメを作っていた人物も井手なのだ。これみよがしにA室に記されたKuki Nishinoという人物は架空の存在であり、井手は観客に一杯喰わせて、実際にはステートメントで「横暴だ」と書いた奥村の指示に忠実に(?)従い、本来出品資格のないこの会場で自作を展示した(ただしバーゼルで作る予定では全くなかったであろう自作を)、という「アングル」を形成している。


作品の内部に形式的にとどまっているかぎり、記述はここからさして飛躍しない。成る程手が込んでいて、そこから「架空の人物」を作り上げることへの井出の現代美術家としての手堅い思考と、自分でない誰かの作品を利用する奥村のそこはかとない搾取性が嫌な後味を残すだけだ。先に東京都現代美術館MOTアニュアル展に出品された奥村の作品を思い返せば、他者の作品を援用するという、今回と共通する手法を見せているが、その作品の意味内容とは別にその形式が示すのは、作家という特権的な主体を一度消去することで何が引き起こされるのか、ということだった。今回の作品もその延長と考えられるが、井出がいかなる動機にせよ「不在の人物を作る」ことを主題とした作品を提出したのは、作家の主体をモチーフにしていた奥村にとっては好都合だった、ということになるのだろうか。もっとも実はこの二人の緊張関係はプロレスで、今回どのような作品を作るかに関し、井出と奥村の間で何らかの「共謀」があったとしても事態はそれほど動かない。


だがここで、改めて今回の作品の核となっているクレイアニメを再検討し、そこから作品の外部へ補助線を引いてみると意外なものが垣間見える。その外部を参照することで上述のアングルはあくまで作品(虚構)の一部となる。Kuki Nishinoという架空の人物を作り出した井手の作り出したクレイアニメは説明されているようにフランケンシュタイン物語へのオマージュとして作られた。死体をつなぎ合わせつくられた醜い怪物は迫害を受け、自分を作った人間に自分とおなじような伴侶を作るよう要求する。その要求は拒まれ、怪物の作者は死に、最後に怪物も死ぬ。ここで作品の外部に出てみよう。本人確認用に私がiPhoneで会場で見た井手はtwitterに、こんな事を書いている。

個人的な話ですが、僕は台湾人の恋人と2年前から付き合い始めました。それまで、日本や西欧ばかり気にしていた僕にとって、それは大きな変化でした。アジア、この旅行会社のコピーでしか見たことのない言葉が僕の生活に入ってきました。
https://twitter.com/kenjiide/statuses/260986125424922625


詳しくは語られていないが、ある時期、井出と恋人は遠距離恋愛の関係にあったのではないかと想像される。不在の恋人を想像(創造)するアーティスト。徐々にフランケンシュタインの物語と井手がいわば内在的に繋がってくる。クレイアニメが不器用に、こういってよければ醜く作られていることも意図的であると考えられる。私は先にB室で確認できるクレイアニメが人糞のような質感だと書いたが、精神分析的に言えば人糞は(子どもにとって)「世界への贈り物」であり「中間物」である。いわば人糞=自分の身体が外部化したものでクレイアニメは作られているようにも見える。いない人物が造形され、おなじようないない伴侶を求め、叶えられず造形主もろとも死ぬ、というフランケンシュタイン的プロセスにKuki Nishinoを仮構する井手が重ねられる。ここでさらに外部の情報を持ち込もう。2006年当時の奥村はブログにこう書いている。

えと、突然ですが、
これまで三ヶ月強ほど、
ほぼ四六時中いっしょにNYで過ごした
女性が、こちら時間で日曜の深夜、
自分の国・台湾に帰っていった。
http://plaza.rakuten.co.jp/okumokum/diary/200608090000/


8年という時間の間隔を置いて、ごく単純な事実として、「台湾の恋人」というキーワードで、奥村雄樹と井出賢嗣は連結する。そしてそこにはおそらく「不在の人間」を心理的に造形してしまう、というフランケンシュタイン的なモチーフとも。この連想が働いたとき、いわば作品としてあからさまに示されたKuki Nishinoという架空性の次のステップが現れる。ステップ、という理知的な言葉は適切ではないかもしれない。妄想と言ってもいい。いかにも実在しているように、そして「横暴な奥村雄樹」に返答しているような「井出賢嗣」は、実は奥村雄樹が架空に設定した人物なのではないか。奥村雄樹が2009年の美術手帖の評論公募で山辺玲の変名を使って応募した河原温論が入選していることは周知の事実だ(なおそのテキストのタイトルは「河原温の量子重力的身体 あるいは時空の牢獄性と意識の壁抜けについて」)。井出賢嗣なるアーティストは実存せず、検索対策にわざわざwebサイトをつくりtwitterアカウントまで偽造する奥村。「なくなはいな」と想像させるだけの気配は奥村にはある。


この(恐らく井出にとっては「横暴」を超えた酷さと感じられるであろう)妄想は自律したある展開を見せる。奥村とも井出とも面識がなく「情報」としてしか彼らを知らない私にとって、この奥村と井出の(搾取的な)関係は容易に反転する。端的に言えば、「奥村雄樹」という作家、変名を意図的に使い自分の作品でなく他者の作品を利用しているこの「奥村雄樹」という作家は、井出賢嗣が長年努力して作り上げてきた架空のアーティストなのではないか。妄想的ロジック(マジック、と言い換えられても私は抗議しない)、を使えば以下のようになる。あるとき、井出賢嗣は、仮名をつかって自分とは別のペルソナでの作家活動を思いつく。このペルソナでの作家活動はある程度成功し、認知される。井出は、いわば可能性を二倍にすることを目的として滞在制作に自分と別ペルソナの両方で応募する。別ペルソナが選考に選ばれ、国内でも今回のような展示機会が与えられる。井出は別ペルソナから(横暴な)インストラクションが来たという体で自作を、ただし更なる別ペルソナであるNishino kukiなる人物を作り上げ、彼の作品を出品する。このような妄想は会場で提示された作品と、現在の生活条件の中である程度織り込まれている(と私は思う)webでの履歴検索、というものと繋がったとき、一定の妥当性を構築しうる。自分の作品に他者の作品を使うというインストラクションが引き起こした一連のドミノ倒しの結果、展覧会に社会的現実として登録された奥村雄樹(井出賢嗣)は、井出賢嗣(奥村雄樹)となる可能性を否定しきれない。


可能性を否定しきれない、というならばもっと基本的なことが疑われる。奥村雄樹も井出賢嗣も、どちらも誰かが架空に設定した「人造人間」ではないのだろうか。彼らと実生活で接点のある人々は苦笑して聞き流すだろうが、ある人物(個人である必要はない)が深く決意し、10年程度意識的に忍耐強くこの「架空のアーティストを存在させる」というプロジェクトを遂行するならば、私の妄想を完全に無視できる人間は相当数減るだろう。そのプロジェクトの主こそKuki Nishinoではないのか。そしてそのプロジェクトはもしかするとタイトル通り「1978-2012」の間続行されたのだ。ここまでの記述から当然想像されるとおり、奥村雄樹は1978年生まれであると彼のwebサイトには記述されている。


ここまでの妄想的記述は更に反転される。「亡霊と言語についての記録:1978-2012」は、架空の存在であるKuki Nishinoの作品によって、実在している奥村雄樹(井出賢嗣)の存在を架空化=「人造人間化」する試みなのだ。「亡霊と言語についての記録」の言語とは、ある側面において名前のことでもありうるだろう。私はこれを実証しようとは思わない。ただ、今回の「私をとりまく世界」と題された展覧会に出品された奥村雄樹(井出賢嗣)あるいは井出賢嗣(奥村雄樹)の作品は、ふとした契機で、美術展に登録され認知される「アーティスト」の存在を、この程度まで亡霊化(妄想化)する可能性を秘めていることを言いたいだけだ。


故に奥村雄樹(井出賢嗣)あるいは井出賢嗣(奥村雄樹)の名前の関係制のフレームアップのネタとして認知されかねないKuki Nishinoによるクレイアニメインスタレーションは、その意味内容においてこの作品の、真のコアとなる。歪んだ金属片、ガラス器に入れられ、またその外にあった粘土は醜く造形される「人造人間」の肉片であり、アメコミ風、あるいは書きかけのような人物像のドローイングはその設計図である。高い位置におかれた靴は履かれることのなかった「人造人間」の靴の浮遊化であり、映されたモノクロの、ぎこちなく、背景に美しい男女のペアが映った空間で醜く作られ動き回る人形たちは、誰かの見た夢のようだ。誰かとは作られなかった「完璧な人造人間」かもしれず、あるいはその作り手かもしれない。だから映像前におかれた椅子は、観客のためのものではなく、この夢を見たのであろう「誰か」のためのもので、そこは今は不在なのだ。これは椅子に観客が座ってはいけない、ということではない。そこに座ることで、誰もが「今ある、こうではなかった自分」を夢見ることになる。それはありえなかった存在であり、ありえなかった人物とその(恋愛を含んだ)人生であり、ありえなかった関係性だ。


こういう思考のプロセスを経てこの映像を含んだインスタレーションを見た時、私はふいに肉体的・感情的な辛さを抑えがたくなった。美術、あるいはアーティストを巡る論点などを通り越して、そこに提起されていたのはありえたかもしれないが、ありえなかった世界と私の別の身体への悲しい「オマージュ」になる。この作品の多重的な構造を見ることがなかった人も、この作品から排除されていない。ただ、Kuki Nishinoの映像作品をストレートにみるだけで、この作品のコアにあるもの、ある感情は確実に伝達されるはずだ。Kuki Nishinoはこう書いている。

私には身体がない、足や手は草花のように枯れ、店先のぶら下がった肉塊のしたたる血液も乾れて(原文ママ)しまった。ついでに最後に残った頭も誰かに蹴飛ばされてどこかに転がっていった。…例えることはできない、私は私であって私と約束されたすべての私なのだ。


「亡霊と言語についての記録:1978-2012」は、悲しい、あるいはセンチメンタルな夢だと私は思う。