思考と呼ぶに足る展覧会・引込線2013

航空公園駅から30分くらい歩いた場所で行われていた「引込線2013」に行ってきた。良い展覧会だった。この「良い展覧会」という言い方にはいくつかの側面がある。一番大事なのは、そこに置かれていた作品によいものがあった、ということであり、例え個別の作品が良いとは思えなくても、全体として展示空間の中で、それぞれの思考が納得のいくものが多かったということだ。もう一方で、この展覧会から、たとえば「大きな問題意識」を全面に掲げるという感覚は、以前よりも退いた。代わりに表面化したのは、個々の作家が、それぞれの作品と、この展覧会の条件−作家と美術批評家の自主企画であり、故に会場設営から管理、全体の運営までを参加者が皆で分担する、さらに会場が使われなくなった給食センターである−の接点を考え、それを梃子にして、各自の設置空間を構成するという基本的な姿勢だ。


「引込線」はもともと所沢ビエンナーレという名前だった。ビエンナーレとはいっても行政主導ではなく最初から作家主体であり、前回の展覧会は事実上「非ビエンナーレ」としてのビエンナーレといった体を見せていた(参考:id:eyck:20110918)。僕は詳しくは知らないけれども、おそらく開始当初は、上で書いたような、何らかの形で社会、あるいは美術にかかわる人に広く伝えたい考えや喚起したい問題意識があって、だからこそ多くの人に呼びかけやすい「ビエンナーレ」という形体を選んだのだと想像する。今回も、たとえば専用WEBサイトには「発足当初からのコンセプトをさらに強固にすべく、いくつかの事項を更新いたしました」とあって、問いかけをやめたわけではないことは良くわかる。しかし、それでも会場を1か所に集約し、参加作家やカタログ執筆者も、よく知られた人より、比較的若い世代が主となっている。印象だけを言えば、主張をし、極力多くの人に呼び掛け、議論を喚起しようという感覚は小さくなっていて、その代わりに静かな、しかしある抵抗感を持った実践的なものが大きくなっている。


でも、当たり前だけど、美術の展覧会に最も必要なのは「目的としての議論の喚起」ではない。個々の作家・カタログ執筆者の動機が、運営全体と有機的に絡まって、いろいろな条件を分析し、克服し、場合によっては利用して「良い展覧会」にすることが必要なのだ。その後から必要な議論などは準備されるので、実際、自主ゼミナールのような試みは頻繁に開かれている。そこでは動員数とかではなくて、参加した人がどのようにこの展覧会で「考えたか」が大事であり、かつその考えが、展示を見る人の思考も喚起してくる、そういう空間づくりが核心にある筈だ。「引込線2013」は、ぶっちゃけて言えば声高な「挑発」はないし、「お祭り」的なものもない。むしろその徹底した非-祝祭性こそがものを考えるには不可欠なのだし、そのような試みが4回目で、より純化してきている事に注目すべきだと思う。

  • 前野智彦の作品は福島第一原子力発電所の事故処理の現場を想起させる。巨大な白いビニールシートで梱包された汚水処理設備の周辺に、たくさんの水槽と目的不可能な機械のようなオブジェが接続されている。小部屋にはやはり目的不明なオブジェとモニターがあり、機械的な音声が流れている。意味ありげにそこで「処理」されているのは水であって、水である以上本来は「処理」が必要なものではないし、実際にこの設備は「処理」機能はないだろう。この無意味な「処理設備」、というより処理設備の無意味さが、現実の福島第一原子力発電所の事故処理の現場にオーバーラップするのは必然だろう。とはいえ、この作品の射程距離はそこに限らない。前野の作品には、ごく形式的に、動線(会場入り口に設置されている)に呼応した「移動」と「変換」の感覚がある。歩きつつ見ることになる作品は、次々と視界を上下し連なる様々な装置によって映画のように運動する(相米慎二の「ションベン・ライダー」の木場の長回しのシーンのようだ)。美術的な視点でいえば、この作品の最も特徴的な「白」という色彩が「処理」というコノテーションと連結したときに発生する政治的意味は、芸術史の中で特定の位置を持つ「白」の潜在的な政治性を前景化させている。前野の作品が「社会派」という枠組みのもつある種の紋切り型を免れているのは、全体の無意味さ、ナンセンスな感覚がどこかでユーモラスな回路(あの音声は自然に笑いが出る)を構成している所ではないか。この作品は、どうしても福島の原発事故現場を思い起こさせつつ、それと切り離して独立してとらえることもできるという、奇妙な二重性を持った作品だ。前回の出品作よりも良く見えた。
  • 利部志穂の作品は判断に困る。以前僕はこの作家について、天井が高かったり野外だとうまくいかないのではないかと思ったけど、今回も吹き抜けた空間を上手く使えていなかったようにもみえる。同時に給食センターという場所で、一見どこまでがこの場所の既存の構造物で、どこが利部の作品かが一瞬わからなくなり、しばらくその場を虫の目のように観察し始めるとき、もう「利部空間」ともいえる位相に自分が入っているのが面白い。しかしその感覚は、案外長続きしない。しばらくすると利部コードのようなものが(うまく説明できないにせよ)見えてきて、その空間はむしろわかりやすいものになる。そう考えると「やや受け」という感じになるのかもしれないのだけど、ちょっとそういう判断も棚上げさせられるのが、ロッカー状の金属箱の中に設置されたストロボ発光機や、大きなボール状のものの中にセンサーで音に反応するように置かれた光る機械で、正直「彫刻」としても「インスタレーション」としても全然機能していない。だけど、このすっとぼけた、エフェクティブなところがない「お遊び」みたいなものが、今回の作品の、ちょっと半端な感じをポジティブな側に向けていると思う。思えば国立新美術館「アーティスト・ファイル」展での利部作品にひっかかるところがあったとすれば、あの天井を低い位置で抑え込むバーの連なりの圧倒的な「効果」で、ああもエフェクティブだと引いてしまうのだけど(参考:id:eyck:20130402)、今回の「光もの」は、ぜんぜんエフェクティブでないので、そこがいい。しかし「良すぎだった」と伝え聞く2009年の展示はどういうものだったのだろう。見なかったのが悔やまれる。
  • 益永梢子の作品は、ステンレスの机の上に小麦粉のようなものを様々な計量カップでかたどりして並べた作品がよかった。それは仮設的で、脆く(実際に一部は崩れている)、なんら「作品」的な佇まいではない。形状や大きさはレディメイドの計量カップで規定されていて、おそらく作家の「意図」のようなものがあるとすれば、背の順などではなく、交互にばらばらな(「順列」にならないようになっている)ところだけだろう。けど、このように計量カップを使って小麦粉の山を並べるのは、日常生活の中では現われえない。全然作品的に見えない、日常のものだけど、絶対に日常では現われない空間を、とてもさりげなく、軽快に見せているのがこの作家のセンスの良さだ。同時に別の場所にあった、木の板(と既存の木製の棚)を使った絵画の展示はあまり成功していない。それは場所の悪条件(せまく暗い)が原因ではなく、あくまで個々の作品の「質」に由来したものではないか。そこで作品は既存の木製の棚や壁の塗装と呼応し、合板にペンキのようなもので色彩が塗られた感じで、絵画でありながら環境と「響く」ことを意図されていたと思うのだけど、その「響き」が、絵画として、作品として離陸できていないように感じた。逆説的な言い方だけど、ここで益永は、色彩の塗りに対し、作品として自立しうるよう、ある種「絵画的」に画面を構築している。色彩の選択や刷毛跡など、繊細に「作品」になるようコントロールしているのだけど、その制御が若干パターンに流れているように見えて、ふと「作品」になることを取り逃がしているような気がする。こういうのを見ると、作品て本当に難しいと思う。
  • 伊藤誠の「土星」は、この展覧会の中で見ることができた最も古典的な「彫刻」と言える。油土で大きな球の周りにチューブのような輪をつけ、会場のコンクリートの床に置き、周囲のきょう雑物を一定の距離遠ざけて、すっきりと作品の形態を見せている「土星」は、やたらと「環境に呼応」しようとしている他の出品作の中で清潔な孤立感を持っていて、ああ、伊藤誠って本当にオーソドックスな資質に恵まれた力のある彫刻家なのだな、と再確認する。「引込線」がとても特徴的な展覧会だと思うのは、おそらく戸谷氏の影響だと思うけど、圧倒的に彫刻、あるいは彫刻的な骨格をもった作品がよく見える展覧会だということで、「引込線」は近年まれに見る良質な「彫刻展」としてのコアを持つプロジェクトだと思う。同時に、案外正当な彫刻を見る機会がなくてもったいない感じもあるのだけど、伊藤誠土星」は、この展覧会に、本当にあるべき形で彫刻を示してくれた感じがして、嬉しい。補足すると、正統的な彫刻だとおもうけど、その丸く記号的な形態が妙にソリッドに「彫刻」している様子は、重い素材で宙に浮いているイメージを喚起するという作品構造と相まってポジティブな笑いをもたらすものであり、全然古臭くない。チャーミングだ。
  • 冨井大裕の彫刻は大きな水準器と万力を組み合わて垂直に立つオブジェを構成しそれを直線状に6本か7本(くらいだった)並べたもので、以前AGAIN-ST展で展示していた作品の延長にあるように見えた。表現はずっと洗練され、いわば視覚効果としては色彩の鮮やかさも含め非常にエフェクティブで、ややマニエリスティックでありデザイン的にも感じる側面が正直にいえばある。そういう意味で危ういところがあるわけだが、では「彫刻」として力がないのかと言うとそんなことはない。等間隔に並んだ垂直な金属が空間にリズムを打ち込む感覚はどこか音楽的でこのイメージはAGAIN-ST展(あるいは「空似」展)では感受できなかったものだ。場所の選択も正確だ。
  • この展覧会は絵画に圧倒的に不利だけれども、末永史尚の作品はフレームを三角にしてパズルのように組み合わせ、空間により積極的に関わることでこの難関を上手く突破している。しかし、では末永の作品が「彫刻的」なのかといえば、やはりこれは「絵画」なのだと思わせるある種の質がある。変形パネルの基底材に塗られたストライプなどはあからさまにインテリア的な「模様」だし、牛乳パックの上部やカップが塗装され台に置かれている様子はずっと「雑貨ショップのオブジェ」と見えかねないのだけれども、それが全体として絵画の強さを保持して見えるのはなぜなのだろう。冨井や伊藤の彫刻のように、三次元の空間を積極的に“切開”せず、どこか「平面」の次元でその空間を“圧縮的”に開示する(レオナルドが考えていたような)末永は、最後まで絵画の武器を捨てていないと思える。たぶんその秘密は色彩とマチエールにある。末永の作品のマチエールは決してフラットではなく、手の気配が、どこかラフにざらりと残っている。抑制された色彩と併せ、その実非常に繊細に制御されたそのサーフェイスに、末永の「絵画」は宿っていて、故にフレームや形体で少し踏み出してもそれが実質のある「絵」になっている。ここまでやって「絵」になる、というのは相当な実力だと思う。


「引込線2013」は、給食センター一か所の展示になったことで展覧会としての純度は明らかに高まった。規模が小さくなったことで持続を心配する人もいるのかもしれないし、実際次回の展望がどうなのかは外部からは分からない。しかし、僕は「引込線2013」はどう見ても同時代の作家の展覧会として半端な美術館の企画展では見られない、高い水準のものになっていると思うし、展覧会を支えている、作家・批評家だけでないボランティアも含めた「引込線圏」の人々は自信をもっていいはずだと思う。この純度の展示が5回6回と続けばかなりすごいことになるのではないか。上記で書いたとおり、すべての作品が成功しているとは僕は考えないけれども、上手くいっていない作品にも、個々の作品内部にある論理が、この表情がありすぎる場と交渉をし、駆け引きをし、ある面では折れ、しかし譲らないところは譲らないという痕跡を見せていることは感じられる。だから、上手くいっていない作品も含めて「いい展覧会」なのだと思えるし、ここには思考と呼ぶに足るものがある。