バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁でのバルテュス

東京都美術館でのバルテュス展は、展覧会としてはあまり「冴えて」いない。会場ではいろんな仕掛けを施して、いわばバルテュス神話=孤高かつ独自の美意識をもった巨匠画家、といったイメージを強化しようとしているのだけれど、作品の展示自体があまりに作品が求めるものとずれているために、ことごとくその神話の形成に失敗している。ではダメな展覧会なのかというとそうでもなくて、いわば演出しようとしてしきれなかった雰囲気の中から、逆にむき出しの作品が見えてきて、結果的に冷静にバルテュスを見ることができる。


ごく簡単に、おそらく少しでも美術を見慣れているものなら、バルテュスがまったく「孤高」ではないことが一目でわかる筈だ。明示的に模写なども展示されていたピエロ・デッラ・フランチェスカの影響のほか、あからさまに近い時代の作家からも様々なものを導入している。シュルレアリスムでいえばキリコなどがわかりやすい(デルボーも似ている)。印象派だってしっかり持ってきているし、クールベにしろなんにしろ、こう言ってよければ近代美術の無節操な(つまり使えそうなところだけを流れを無視して)折衷の果てにアイコンとして「少女」を持ってきた感じがする(ひどい連想としてはノーマン・ロックウエルとか似ているのではないか)。そしてスタイルが出来るや、形骸化もなにも恐れることなく、堂々とそれを反復している。ここから見えてくるのは、むしろ十分に世間や時流にまみれつつ、なんとかそこから自分なりの様式を切り出してきた一人の人間臭い画家の姿で、これ自体は別に二十世紀初頭の画家としてありふれている。


こういう書き方をするとバルテュスを馬鹿にしているように見えるだろうけれど、少なくとも僕は変なイメージよりも共感的にみることができた。いずれにせよバルテュスが同時代の(シュルレアリスムも含めた)近代美術の“論理的展開”にはまったく興味を示さなかったのは事実だろうし(だから徹底して表面だけ借りてくることができる)、彼が画面構成の中で依拠しようとしたのがピエロ・デッラ・フランチェスカ以降、おそらくフランドル派プッサンといった、若干古典的なものにあったのは事実で、かつ、実際にその事が画面に一定の読み取り可能性を付与していることも認められる。おそらく今回の作品で面白いのは11歳の自作絵本《ミツ》と(これはたしかに瑞々しい)、その後の習作期だと思う。《オデオン広場》、《リュクサンブール公園》、《空宙ごまであそぶ少女》といった1928-30年頃の作品はどこかでなにかの「さわり」に触れている。その後の30年代が彼の画家としての充実期として考えていいのだろう。


こういう展示を見ると「良い展覧会」とは何かを改めて考える。冒頭に言ったとおり今回のバルテュス展は、たとえば1993年の旧東京ステーションギャラリーでの展示程には作品個々の“見られる”欲望に応える事には成功していない。逆にいえばあの煉瓦の壁面の旧東京駅での展示はあまりにも「バルテュス好み」すぎたとも言える。絵画を見ることが、一定の「心地よい経験」というサービス消費的なものではなく、あくまで認識の水準にあるのだとしたら「バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁の美術館」での今回の展覧会の明白な俗っぽさは、はからずしもバルテュスの、画家としての裸の力量をきっちり示しえていたと思う。頑張って照明を暗くし、パネルで「バルテュス物語」を解説し、アトリエを一生懸命再現し、会場最後に作家由来の品々を置いてみせるようなことをしても、あの壁はバルテュスを「美しく」見せることが絶対できない。だからこそよかったのだと思う。