・音楽的な制作。自らのコンディションと世界の境界面としてのキャンバス。知覚の場は目や耳ではない。キャンバスだ。


・制作を問うことを過大視することは危険だ。時としてその姿勢自体が目的化され、一見真面目な制作態度がそのまま一種のアリバイ工作に繋がってしまう。絵を描く事は「自己分析」の道具ではない。むしろ、そのような「自己」という仮構物からの開放/解放だ(真に素晴らしい制作は文字通り「我を忘れる」)。


・紙やキャンバスに、筆や(私は今また筆を使わない制作をしているけど)鉛筆を置いて、さーっと走らせる快感を失った制作はもはや制作ではない−それがどれほど「厳格」で「正しい」ものであったとしても。あらゆる技術や、自分の制作に対する批評は、何よりもこの原始的な快感をより拡大し持続させるために、誤解を覚悟でいえば「もっともっと気持ちよくなるために」必要なのだと思う。


・絵画がある種の複雑さを必要とするのは、単純にすぎるものは「あんまり気持ちよくない」からだ。例えば子どもが「ノッて描いた」絵は、確かに快感を発生させるけど、それが単純にしか組織されていないので、あっというまに見終わってしまう。高度な達成を見せた「大人の絵」というのは、終わらない快楽の高原を見せる。


サイ・トゥオンブリは、このあわいの危険な場所をうろついている。けっこうな場面でそれは失敗しているけれども、最も成功している例では、余白を活性化することに成功しているのだと思う。サイ・トゥオンブリといえば、なによりそのストロークの連なりが注目されるのだけど、実際にはこの人の作品は、いわば描かないところで支えられている。


・こういう書き方をすると、どうしたって全体のフレームに対する描きの関係性の正確さが「決まっている」ものを評価しているみたいだけれど、そういうことが言いたいのではない(そう見えてしまう作品もたしかにあるが)。私がトゥオンブリに見るのは、いわばフレームを度外視することでしか生まれない画面の自由さだ。画面がまるでどこまでも、フレームに遮られることなく続いていってしまうような感覚、それはトゥオンブリにおいては、観者自身が筆勢になって、どこまでも走っていけそうな感覚としてある。


・舟とかが出て来る新しい作品がつまらないのは、トゥオンブリが身も蓋もなく地に対する図を描いてばかりいるからなのではないか。


・終わらない遊び場。それは空間的なものでもあり時間的なものでもある。あまりに特定の事に没入してしまう時、ほとんど全ての事物が果てしなく微分され、終わりがなくなってしまう。客観的には、ごく狭い場所、ごく短い時間かもしれないが、その微分の最中では、時間も空間も瞬時に無限化する。世界は極端に広くなり、どこまで走って行っても途切れない。そんな感覚。


・こんな「自由」は、子供には獲得できない。まるで子供、あるいは子供時代にそんなものがあるように見えるのは大人のイージーな幻想だ。実際の子供は、極端に不自由なフレームに縛られ、そのことに絶えず苛立つようなものだ。縛られないこと、正しくは自らを縛るものを把握し分析し相対化するには、どうしても一定の成熟が必要になる


・もちろん、この成熟は実年齢とは関係がない。一瞬にして成熟してしまう少年/少女がいるように、すぐに幼児化してしまう中年というのもありふれている。年齢を重ねればなんとかなるものなど、ほとんどないのだ。


・必要なのは経験ではなく意志だと思う。