彫刻家フォートリエ

見てから少し時間が経ってしまったが、東京ステーションギャラリーでのフォートリエ展について。僕がショックだったのは彫刻が素晴らしかった事だ。この仕事はまったく知らなかった。フォートリエについては、今まで見た中ではブリヂストン美術館大原美術館のコレクションが印象的だった。例えば「人質の頭部」(1945年、ブリヂストン美術館蔵)、「人質」(1944年、大原美術館蔵)は相対的に良い作品だと思っていた。けれど戦後のある時期からの作品、「旋回する線」(1963年、ブリヂストン美術館蔵)などはあまり興味が持てずにいた。2011年の「アンフォルメルとは何か?」展でもいくつかの作品を見る事ができたのだけど、およそ評価は変化しなかった。そこで僕のフォートリエへの関心は止まっていたのだけど、今回出品されていた彫刻、とくに最初の展示セクション「レアリスムから厚塗りへ1922-1938」で、少し隔離された小さい空間に置かれていた3点は留保抜きに頭抜けていたと思う。


パリ国立近代美術館の「胸像」(1929年)の良さをどう表現したらいいのだろう。ブロンズで鋳造されているのだが、しかしその表面は潰された球状の粘土がぼそぼそと寄り集まったような、全く「仕上げられた」感覚がないもので、フォートリエの造形の感覚が鋳型で遮断されていない。女性の乳房の量塊がそのまま基部をなし、そこからあまり分節されることなく上へ伸びる首へ、そして頭部へと連続している。この、まったく構成的でない造形、胸・首・頭部が切り分けられず全体に一つの有機体としてある存在感はプリミティブなものだし、近代彫刻の中でも形式的な複雑性という側面ではまったくシンプルなものだ。僕の知っている範囲では、雰囲気的にはマリーノ・マリーニがポンペイの遺跡に残る遺体の石膏型に影響を受けた初期の作品がやや近いかもしれない。が、しかしマリーノ・マリーニは実に職人的に入念なフォルムの洗練を重ねる人で、今回のフォートリエの「胸像」とはどうしても相容れない。また、舟越保武が晩年、脳梗塞で倒れた後、まったく不自由な身体を押して作ったキリスト像は表面の粗さがそのまま造形的強度に繋がっている点では少しだけ連想が繋がるが、しかしやはり舟越の強烈な作品意識と、フォートリエ「胸像」の、なんとも言い難い意識化されていない、泥をすくって作ってしまったような反造形性は距離がある。


プリミティブというよりはナイーブと言うべきかもしれない。ほとんど排泄物が偶然人形に似てしまったような(その意味で東野芳明がフォートリエを「ウンコ」と積極的に比喩したのには共感する)フォートリエの「胸像」には、しかしその、固まりがべたべたと不器用に上へ上へ伸びて行く上昇感覚に、ある種の意志が感じられる。その意志は粘土の素材感やフォルムのまさぐり感を抵抗として、それを押し破るように、盛り上げる手付きにそのまま痕跡として表面にも構造にも現れている。例えば「胸像」の目や鼻や口は、像全体のマチエールにほとんど埋もれるようにしてあって、ほとんど壁のシミを偶然人に誤認してしまったかのようなのだが、しかしそれでも上を向いた、粘土のしっかり組み上げられていない自らの脆さに崩れないかのようなベクトルを持った顔面の角度の付け方、顎のはっきりとした造形(この彫刻で唯一もっとも明快な作家の意図を感じさせる)によって、意志の表出として見える。


会場で近くに置かれている「トルソ」(1928年、兵庫県立美術館)、「頭部(驚く若い娘)」(1940年、三条祇園画廊)のいずれも、それぞれの魅力を持ちながら、しかしその徹底して「へたくそ」さ(無論反語的な意味である)、こういってよければ「彫刻」性といった作品の自意識を脱ぎ捨てるようなネイキッドな感覚は「胸像」と共通していたと思う。その意味で同じ空間に展示されていた、紙に描かれたドローイング「女性胸像」(1934年)もほぼ同じ感覚を持った。対して、下のフロアに置かれていた2点の彫刻「悲劇的な頭部(大)」(1942年、パリ国立近代美術館)と「人質の頭部」(1943年、ソー美術館)は、明らかに彫刻的自意識、ある種の「作品意識」が表に出ていて僕は良くなかったと思う。「悲劇的な頭部(大)」を見れば分かるが、顔面が鼻梁を中心に半面を削ったような「処理」がされている。ここでは明らかにフォートリエには作品制作以前の「壊れたような頭部像」という完成形のビジョンがあり、実際の彫刻はそのイメージのミメーシスになっている。こうなると、1929年の「胸像」のような、無目的な造形がある意志を胚胎させてぐっと上に、あるベクトルを“生み出して行く”生成の力が消えてしまう。僕が良いと思った3点と、評価しなかった2点の会場を分けた東京ステーションギャラリー学芸員はこれらの作品の質の差を理解していた筈だ(制作年だけで判断したのなら1940年の「頭部(驚く若い娘)」は下のフロアに置いた筈である)。


絵画作品についていうなら、代表的な「人質」のシリーズよりもむしろ、その前のいくつかの形式を試行錯誤している時期のものが面白かったと思う。「兎の革」(1927年)のような、スーチンを思わせる作品の黒の効果は記憶に残る。また、単純化された女性像を描いた1926年頃のシリーズはおよそ上手くいっていないが、「前を向いて立つ裸婦」(1927年頃)の幽霊的な感覚だけは、妙に後味が気になる。「人質」シリーズの直前の静物のあたりから「絵画」の絵画性みたいなものから逸脱し始め、そこからあの画面から横溢するフォートリエ独自のマチエールが展開するのだけど、これが戦後、とくに展覧会場の最後のセクション「第二次大戦後 1945-1964」のものになると、急激にマニエリスティックになって空疎な作品が増える。いずれにせよ、フォートリエの可能性の最も高いところは手の触感が目の造形とある一定のやりとりをしながら、視触覚的な「意志」を受胎させていくような場面で発揮されるように思う。これを、全て反視覚性、つまり近代的な視覚理性への抵抗、という側面に落とし込むと、フォートリエの、必ずしも成功していない作品のつまらなさを批判できなくなってくる。確かに「悲劇的な頭部(大)」や1950-60年代のフォートリエの駄目さは、触覚性が後退して視覚的な効果を生み出そうとしているからかもしれないのだけど。


会場パネルにあった、アンドレ・マルローの「フォートリエは現代最高の彫刻家だ」という賛辞はフォートリエの資質を見事に言い当てていた。東京展では兵庫県立美術館の充実したエッチングが展示されなかったのが大変に惜しい。絵画-彫刻の境目にあって、エッチングという技法がフォートリエにとってどんな空間を開いたのか見たかった(今回見る事ができたいくつかのエッチングでは十分な展開を確認できなかった)。

・クルト・シュヴィッタースによる絵画作品(の一部)は一見してミクストメディアと言い得る。無論それに影響を受けた、例えば1925年に作られた村山知義「コンストルクチオン」も同様だろう。コラージュ、プリコラージュ、アッサンブラージュから後のコンバイン(ラウシェンバーグ)といった流れだけではなく、技術的に言ってメディウムの複合性といったものは近代美術において連綿としてある系譜だ。現在、美術におけるメディウムのクロスオーバーな展開を遡上にあげるとき使われることのある「ポスト=メディウム」という語の「ポスト」を、素朴に時代順序を示すものだと受け取ってしまうのは危険である以上に端的に誤解であることは改めて確認されるべきだろう。


・例えば「表象08」(表象文化論学会)の特集「ポストメディウム映像のゆくえ」の鼎談で示されている事実−クラウスによるこの語の使用が、美術の各カテゴリにおけるメディウム純化の歴史的展開として近代美術を見る、いわゆるグリーンバーグ史観(しかもグリーンバーグ自身一時期の使用概念であった)、というごく狭い仮想敵に向けられていたこと、ここでの「ポストメディウム」というのは事実上「ポストグリーンバーグ(的メディウム)」という、政治的なものであったこと等を踏まえなければ、議論はまったく混乱してしまう。


・そもそも批評というのは常に極めて限定された、狭い場所でしか生産されないのではないだろうか。美術や作品は常にそれが生産される個別の歴史的拘束の中でしか思考されない。というよりむしろその拘束自体が作品を胚胎させ成長させ老衰させ死亡させ復活させる。批評も全く同じだろう。それはそもそもローカルなものでしかない。場合によってはプライベートなものかもしれない。それがもし元の場所から移動され、まったく異なる場に置かれたとしたら、それはそもそも元の通りに動作する筈が無いのだ(例えばクラウスにはクラウスの問題意識があり、モチベーションがあって初めてそのタームが生産される)。これがもし、最初から「グローバル」で「世界的」な「理論」が目論まれたとしたら、そのような「理論」は単なる一般論以上のものではないだろう。それはまったく批判としての批評足り得ない。コーラやハンバーガーの広告のようなものだ、というのが言い過ぎなら、使い勝手の良いキャッチフレーズでしかない。

メディアの条件の露出としての「メディウムの条件」展

ART CRITIQUE n.04のユニークな点は、刊行にあわせて企画展「メディウムの条件」を開催した所にある。会場のHAGISOはカフェ併設の空間で、必ずしもフラットではない場所を有機的に活用していたのは参加作家の力量なのかもしれないが、複数の形式の作品が、しかし散漫に見えないのはやはり単なる「三人展」ではない、コンセプチュアルな姿勢故と言っていい。


写真が活動の中心という吉田和生の作品で最も印象的だったのは、会場二階の屋内バルコニーに設置された映像作品だった。壁面に縦に設置された液晶モニターに、水面に映った樹木がある。空も見える。鮮やかな緑の葉に覆われた、こんもりとしたボリュームが、水面にたつさざ波によって時折歪む。樹木自身も風に揺れている。最初に(おそらく多くの人が)疑問に思うのが、この水面の揺れはデジタル上で人工的に作られたのか、それとも自然のゆらぎなのか、ということではないだろうか。水面の揺らぎは液晶モニタのフレームに対して呼応し、時にブロック型に近くなるような時もあるのでそのような疑問が湧く。しかし、同時にこの作品の生み出す魅力が、必ずしも自然の美しさのみに収斂しないことも分かる(映像が人工的であったとしてもその本質は変わらない)。水面のゆらぎの滑らかな複雑さと、その「向こう」(この対象への距離もまた興味深いのだけど)の樹木の葉のざわめきとが相互に重なり、輻輳することで生まれる独特な視覚的波長が、それ自体で魅力となっている。


水の透明感とか樹木の揺らぎの美しさだけでなく、映像作品自体の生むビート(その緩やかさから「リズム」という言葉がふさわしいかもしれないのだが、時に急に水面のさざ波が複雑になることがあって、そのシーンではどうしても「ビート」と言わないと追いつかない)が純度高く抽出されている。音がないことも、この映像の純度の高さと関係するだろう。同時にモチーフとしての樹木や水あるいは空も重要な存在として残り続ける。映像モニターから外部世界へリンクが張られることで、作品の生み出す波動が飽きのこない拡張されたものになる。先の東京都写真美術館・高谷史郎による「Toposcan」も想起させるが、しかし圧倒的な技術的構築(超高精細な撮影技術)によりスペクタクル的側面も持った「Toposcan」に対し、遥かにミニマルでささやかな吉田和生の作品は、その非スペクタクル性によって別のベクトルを持った作品になっている。


益永梢子の作品は、棒状の支持体に布でカバーがしてある(実際の構造がそうなのかは分からないのだけれども、そのように見える)作品が興味深い。会場にある2本の柱の間にぴたりとはめ込まれた作品と、壁に立てかけられた作品があるのだが、どちらも二つの支持点(柱と柱、壁と床)を渡すことで成り立っている。布は複数の色で分けられ、棒状のいくつかの箇所で分節されている。先端で布は長さがやや余っている(内部が充填されていない)。また、布の小さな取っ手のようなものもついている。支持体、布、色彩、という構成要素を取り出せば、やはりこの作品は絵画を想起させる。しかし、その空間への拡張の力は、絵画という枠組みをかなりの程度抜け出している。


他の出品作、例えば色彩の施された画布が複数組み合わされ壁に半立体的に留められたものを見れば、この棒状の作品によって作家が手をかけた場所が、ずっと絵画から遠くまで来ていることが分かるのではないだろうか。そして、その上でやはり絵画という支持点にもこの作品は接している。つまり実作が柱と柱、壁と床という2点を渡しているのと同時に、絵画と空間という水準でも2点を渡している。このような拡張力がどこからくるのか。益永梢子に感じられるのは周囲の世界を形式的に様々に変換・拡張しえるものとして見ているのではないかという予感だ。この作家は作品の素材選択に見られる日常性を操作可能的に眼差す作家であって、今回の作品ではその感覚が犀利に現れていたと思う。


早川祐太の作品は、以前大山エンリコイサムとの二人展「フィジカルの速度/Physical Kinetics」でも見ていた。天井に取り付けた扇風機の羽に線を垂らして回転させ、いわば紐による架空の回転体を出現させる作品が今回と別のバージョンとしてあったが、彫刻家としての資質に恵まれている様に見えた作家がなぜ「フィジカルの速度」展で壁にかけたアクリルボックスに樹脂の粒を充填させるといった、絵画的アプローチをしていたのが上手く了解できなかった。しかし「メディウムの条件」展では充実した展示を行っていた。この作家は物質的特性に体する作用とその結果への、奇妙な執着的関心から思考を展開しているように思う。そしてその視点からなら「フィジカルの速度」展での展示も了解できる。


例えばビニール袋に樹脂を充填し、固化した段階でそのオブジェクトを鋭利に切断して断面を見せたと推測される作品では、結果的に生まれたフォルムそれ自体だけでなく、切断された樹脂の表面の妙な生々しさに視点が吸着する。会場二階に展示されていた、1.高い場所にある水槽、2.そこから伸びるビニールチューブと途中でそれを締め付けるクリップ、3.壁面に固定されたレンガ(そこに滴るビニールチューブからの水滴とその痕跡)、4.床面に置かれたレンガ、という構成の作品は、早川祐太の物とそこに働く力が表す様態への関心を最も複雑な形で見せていたと思う。液体が固化する過程で生まれる形であれ、鉛直線が回転した結果生まれた回転面であれ、水がレンガに残す痕跡であれ、変容の痕跡への作家の関心が定着していた。


この展覧会はポスト=メディウム論の導入、具体的には筒井宏樹編著による『コンテンポラリー・アート・セオリー』(イオスアートブックス)で沢山遼によって書かれた「ポスト=メディウム・コンディションとは何か?」、さらに先頃刊行された「表象08」(表象文化論学会)の特集「ポストメディウム映像のゆくえ」(ここでクラウスによる「メディウムの再発明」が星野太によって訳出されている)を、そのバックグラウンドに意識してしかるべきものだと思う。しかし、僕には「メディウムの条件」展もART CRITIQUE n.04も、海外の美術理論と国内の状況の平行性のあぶりだし、という見方よりはむしろ現在の、個々の美術の現場(作品の制作に限らず美術批評・理論の場、あるいは市場や美術館といった美術に関わるもの全体)で常に直面される基本的な課題設定として捉えた方が生産的に感じた(雑誌であるART CRITIQUE n.04にとってジャーナリスティックな側面が無視できないのは当然として)。


あえて言えば、佐々木友輔の揺動メディア論と会場で上映された映画作品は、ポストメディウム映像という切り口からも積極的に検討可能だろうと思う。いずれにせよART CRITIQUE誌と「メディウムの条件」展のような試みは、見方によっては公立美術館や大型出版社が一定の予算とリソースを割いてやるに値する事業で、そういうものが一個人の、独立メディアによって実行されてしまったという事実は、それ自体で日本美術の「メディウム(メディア)の条件」を露出していると言えるかもしれない。展示は終了している。

物理的強度に支えられない彫刻の質の跳躍・エアヴィン・レーゲル展

ヒノギャラリーでのエアヴィン・レーゲル展で見た彫刻作品には、少し心が惹かれた。少し、というところが大事なのかもしれない。置かれていた彫刻は新奇だというわけでもないし、極端に大きいとか小さいとか、何か珍しい技術が使われているわけでもない。見ようによっては保守的な、どうということのない作品なのかもしれない。しかし、見た瞬間から、いくつかの作品(それは石膏が使われた作品が主なのだけれども)には奇妙な魅力が感じられて、その感覚が自分の中に残る。こういう繊細な魅力というものは言葉にしづらい。人は作品を見た時の心の動きの「大きさや量」に、ついつい作品の質を比例させて考えてしまう。むろんこれは錯誤だ。とてもびっくりしたり、大きな感動を与えた作品の「質」がその心の動きの大きさに見合って高いとは限らない。ささやかな印象の作品の「質」が、やはり同じように「ささやか」な程度であるとは限らない。エアヴィン・レーゲルの作品には、そのささやかさの中に貴重なものが含まれていると思う。


会場入ってすぐ左手の壁にかけられた《untitle》という作品−もっともすべての作品が《untitle》なのだけれども−は複数の部分が接合している。横に広く、下がいくつかの直線で円弧を描くようになっている木の板と、細長く、上方へ向けて円弧を描く木材が両端で接している。全体のシルエットは木の葉のようでも、舟のシルエットのようでもあるが、上方の円弧を描く木材と下部の木材の間には隙間があり、また上部の木材には厚みがかなりあって、下部の板状の木材の上に重ねられた右端ではより手前に出ている。上部の木材にはぎざぎざとした細かい溝がついている。全体に白く塗装されているがその塗装は不均一で、溶かれた石膏が塗られたようだ。下部の木材の面上は白が薄く、透けて木材の表面が感じられる。対して上部の木材はかなり厚く白が塗られている。右下に石膏が垂れたような痕跡がある。とくに木材の接合部は厚く四角く別の接合材が覆われているようなマチエールが見られる。


エアヴィン・レーゲルの作品の特徴として、それが常に複合体である、という点があげられるだろう。同じ会場に置かれていた、いくつかのブロンズで鋳造された作品、また他にもある石膏の作品も、必ずいくつかの部位が接合してひとつの作品になっている。奥の部屋にあるブロンズの作品も、一見一体性が強く見えるが、まず床に接する所に板状の台があり、背の高い帆のような三角の板状の部分と、その縁が細く伸びて上方を指し示す棒状の部分が組み合わさっている(植物の実の皮だけが細く伸びたようだ)。また、表面が粗く、「磨きあげられていない」ことも重要に思える。エアヴィン・レーゲルの作品は常にざっくりと、即興で組み合わされそこに投げ置かれているように見える。丁寧に工芸的に仕上げられていないこと。また、空間に対して作品が近い、あるいは直接接していること。多くの作品に台座がない、あるいは上記の作品のように薄い板だけで接している作品が主で、一点だけ台に乗せられている作品があるが、おおよそそれらは日常的なものからの切り離し、「作品」という固い防護−ガラスケースや立派な台座、触れがたい磨き上げられた面を欠いている。


まるで作業場にある素材や断片がそのままごろりと置かれているようにある/しかし、それらは必ず何かと組み合わされている=つまり、確実にある意図や契機(チャンス)がそこに介在している。それが磨きあげられず、立派な台座に据え置かれていないこと、木材や石膏といった、どこにでもある素材が使われていることなどは、あることを明確に示している。エアヴィン・レーゲルの「作品」が「ただの木材」「ただの石膏」でなく「作品」であることの根拠は、つまり複数のものが組み合わされて造形されてあるというところに示された意図や契機(チャンス)に純化されている、という事実だ。もう少し踏み込んでいうなら、エアヴィン・レーゲルの手さばきは、目の前にある素材が素材ではなくまぎれもない「作品」となる、そのコア、その謎の部分以外のものを取捨している。この彫刻家の、とくに木材と石膏で形作られた作品には「作品の作品性」以外のものが付与されていない。あるいは「作品の作品性」だけが裸のまま、ごろりと投げ出されている。


このように見ていけば、ブロンズで鋳造された作品がどうしても「一つ余計な手がかかっている」と見える理由は明らかに思える。そこでは木材や石膏で組み合わされ造形されたフォルムだけが抽出され、そのフォルムが産出されたプロセス、というよりはやはり契機(チャンス)が覆い隠されている。エアヴィン・レーゲルが目の前の素材や断片から「作品」を生み出していく、その中核の部分が見るものから遠くに押しやられているのだと思う。ブロンズで鋳造されれば、無論その物質的な強度は増すだろう。対して、木材と石膏で形作られた作品は脆く、常に元の素材・断片へ回帰してしまう危険を孕んでいるだろう。しかし、そもそもエアヴィン・レーゲルの彫刻作品の貴重さは、その脆さ、弱さ、儚さに支えられているのではないか。ブロンズ鋳造で抽出されたフォルムに意味がないわけではない。しかし、そのフォルムはエアヴィン・レーゲルの彫刻作品の貴重さの一角にすぎない。またその骨格の「複数性」が、鋳造によって一体化されていることも見逃すことができない。


ここで僕が最初に書いた「ささやかさ」とは、そしてその「ささやかさの質の高さ」とは、エアヴィン・レーゲルの作品の、おそらくは裸の感覚に根ざしている。この裸の感覚とは、素材が素材から作品へジャンプする跳躍の工程がすべてむき出しになっている、ということだと思われる。そしてその跳躍の高さは、必然的に物理的な脆さと背中合わせになっているように思える。エアヴィン・レーゲルの彫刻はその本質において壊れやすい。しかし、それはその質の高さを目撃したときの経験の壊れやすさとは一切関係がない。一度この作家の「質」を感受しえたものには、むしろ強固に刻まれるはずなのだ。その強固さはけしてブロンズのような物理的支持体の強さによるものではないと思う。

死後の世界の文字としてのキトラ古墳壁画

キトラ古墳壁画を、東京国立博物館で見ていた。平日の午前中に行って、館外40分待ちの館内20分待ちくらいだったのだから、大混雑といわれたこの展覧会のコンディションとしては比較的良好だったんだろうと思う。7世紀末くらいから8世紀に造営され描かれたというキトラ古墳壁画は、世界史的にはそれほど古いものではない。ヨーロッパではカロリング朝美術(このようなキリスト教会絵画http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/19761816.html)とかが展開してあの抽象度の高いロマネスクを準備していたわけだし、中国では唐が高い文化を形成している。とくに唐、朝鮮半島キトラ古墳との関係で念頭においておくべきだろう。例えば法隆寺百済観音の、和様化されていない、一種異様な造形は北魏の仏像を見ることで理解できる(以前ある人から教えられた)。当時文化的には大陸・朝鮮半島から遅れていた(輸入国だった)奈良朝のキトラ古墳壁画も、唐の絵画の達成(例えばこの仕女図とか。http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/past_17_to_index/#cnt_3)をイメージする必要があるのだろう。


展示は十分工夫がこらされていた。もちろん保存のために小さく切り取られたキトラ古墳壁画だけでは会場がもたない、ということもあるだろうけど、僕が感心したのは石室の各壁面を精巧に再現した模造壁面で、技術的にどのように行われたのか、ちょっと見ただけではオリジナルと区別がつかない。東西南北+天井(星辰図が描かれている)の各面を原寸で展示することで、壁面から切り取られてケースに入れられたオリジナルのキトラ古墳壁画の、本来の「構図」(立体的な石室であることを考えれば「構成」というべきか)を想像することができる。やはり古い時代のものを見る時には一定の知識や理解はあってしかるべきなわけで、「教育的」な展示構成が効果的に作られていたと思う(石室の内部で保存のために壁面をはがす、という想像するだけで怖い作業の様子をとらえた映像も流れていて、これも面白かった)。


そうした前提を踏まえてキトラ古墳壁画を見た時、その線描にとても硬質なものを感じる。線が、そのベクトルを運筆の方向よりも、むしろ基底材(しっくいの石壁)へと刻み付けるようなものとして見える。これは保存状態も関係しているだろう。流れる泥流でほとんど図像の消えてしまった青龍を見れば想像がつくけれども、表面の劣化の果てにある図像群だから、おそらく線の方向を表すような薄い(淡い)部分、例えば筆が離れようとするような箇所のニュアンスが飛んでしまっていて、いわば線の骨格だけがかろうじて残っている。結果的に、線から含みのようなものが消えているので、結果的に「硬質」に見えるのかもしれない。しかし、例えば参考パネルで見られる高松塚古墳の壁画と比べてもその「硬さ」は感じられる気がする。基本的に唐等の先行する図像を模倣している(高松塚古墳の壁画ともほとんど形式的に同じだ)、という画工の筆遣いそのものに、やはり「硬さ」のコアはあるように感じた。


もう一つ、キトラ古墳壁画の「硬さ」に宿ってる質について感じることがある。キトラ古墳壁画は基本的に「絵」というよりは「記号」に近い。壁画だ、と思うと近代にいる僕などはすなわち「絵画」という先入観を持ってしまうが、「絵画」という観念はとても限定的でジャンル確定的に狭いものでもある。キトラ古墳壁画は絵であることがそのまま文字(意味)でもある。星辰図があることからある種の地図(宇宙図)でもある。だからむろん異同はあるにせよ、意味の確定したマークとしての像(イメージ)が反復的に描かれる。死者の場所=墳墓の石室内に描かれるということは本質的にこれらの像に観客はいない。ただ死者の世界で読まれるべき像(イメージ)だから、世俗の装飾的な「絵」とも位相が異なるだろう。キトラ古墳壁画は、だから「絵」を見る経験というよりは「マーク」あるいは「文字」を見る感覚に近い。石室内部の構造や、イミテーションで全体の構成を理解する必要があるのは、それらの「文字」が全体で「死後の世界の書物」を構成する骨格を理解しなければならないからで、これは高松塚古墳とかでも同じなのではないか。


いずれにせよ各図像の劣化は待ったなし、という感じで、石室から剥がして部分的にでも保存を決断した、というのはギリギリの所だったのだと思う。古代に限らず中世以後の寺社の襖絵などもどんどんコピーに入れ替わっていて、オリジナルは美術館や博物館に、本来の形とは異なる形で保存されるのはしかたがない。むしろメトロポリタン美術館が高精細の画像を一般公開しているように、ある水準を超えたコピーはオリジナルだけを特権視することでは得られない研究手法や鑑賞(例えば一般の観客が息を吹きかけられるほど近くで見る、といったような)へ開かれる可能性がある。セザンヌの全作品が極端に高精細な画像群として誰にでもアクセス可能なものになったら、様々な研究・批評の地殻変動が起きるのかもしれない。そういう意味ではキトラ古墳壁画のあの精巧なレプリカ自体を見た経験が、今回僕にとって一番大きいかもしれない。

バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁でのバルテュス

東京都美術館でのバルテュス展は、展覧会としてはあまり「冴えて」いない。会場ではいろんな仕掛けを施して、いわばバルテュス神話=孤高かつ独自の美意識をもった巨匠画家、といったイメージを強化しようとしているのだけれど、作品の展示自体があまりに作品が求めるものとずれているために、ことごとくその神話の形成に失敗している。ではダメな展覧会なのかというとそうでもなくて、いわば演出しようとしてしきれなかった雰囲気の中から、逆にむき出しの作品が見えてきて、結果的に冷静にバルテュスを見ることができる。


ごく簡単に、おそらく少しでも美術を見慣れているものなら、バルテュスがまったく「孤高」ではないことが一目でわかる筈だ。明示的に模写なども展示されていたピエロ・デッラ・フランチェスカの影響のほか、あからさまに近い時代の作家からも様々なものを導入している。シュルレアリスムでいえばキリコなどがわかりやすい(デルボーも似ている)。印象派だってしっかり持ってきているし、クールベにしろなんにしろ、こう言ってよければ近代美術の無節操な(つまり使えそうなところだけを流れを無視して)折衷の果てにアイコンとして「少女」を持ってきた感じがする(ひどい連想としてはノーマン・ロックウエルとか似ているのではないか)。そしてスタイルが出来るや、形骸化もなにも恐れることなく、堂々とそれを反復している。ここから見えてくるのは、むしろ十分に世間や時流にまみれつつ、なんとかそこから自分なりの様式を切り出してきた一人の人間臭い画家の姿で、これ自体は別に二十世紀初頭の画家としてありふれている。


こういう書き方をするとバルテュスを馬鹿にしているように見えるだろうけれど、少なくとも僕は変なイメージよりも共感的にみることができた。いずれにせよバルテュスが同時代の(シュルレアリスムも含めた)近代美術の“論理的展開”にはまったく興味を示さなかったのは事実だろうし(だから徹底して表面だけ借りてくることができる)、彼が画面構成の中で依拠しようとしたのがピエロ・デッラ・フランチェスカ以降、おそらくフランドル派プッサンといった、若干古典的なものにあったのは事実で、かつ、実際にその事が画面に一定の読み取り可能性を付与していることも認められる。おそらく今回の作品で面白いのは11歳の自作絵本《ミツ》と(これはたしかに瑞々しい)、その後の習作期だと思う。《オデオン広場》、《リュクサンブール公園》、《空宙ごまであそぶ少女》といった1928-30年頃の作品はどこかでなにかの「さわり」に触れている。その後の30年代が彼の画家としての充実期として考えていいのだろう。


こういう展示を見ると「良い展覧会」とは何かを改めて考える。冒頭に言ったとおり今回のバルテュス展は、たとえば1993年の旧東京ステーションギャラリーでの展示程には作品個々の“見られる”欲望に応える事には成功していない。逆にいえばあの煉瓦の壁面の旧東京駅での展示はあまりにも「バルテュス好み」すぎたとも言える。絵画を見ることが、一定の「心地よい経験」というサービス消費的なものではなく、あくまで認識の水準にあるのだとしたら「バルテュス本人なら拒否しただろう可動壁の美術館」での今回の展覧会の明白な俗っぽさは、はからずしもバルテュスの、画家としての裸の力量をきっちり示しえていたと思う。頑張って照明を暗くし、パネルで「バルテュス物語」を解説し、アトリエを一生懸命再現し、会場最後に作家由来の品々を置いてみせるようなことをしても、あの壁はバルテュスを「美しく」見せることが絶対できない。だからこそよかったのだと思う。