東京国立博物館/日本国宝展に関するツイート
東京国立博物館で開催中の日本国宝展に関するツイートをまとめました。現況での博物館、そして展覧会に関する疑問もある展示でしたが、正倉院宝物を東京で見ることができる貴重な機会でもあります。
日本国宝展へ。いかがなものかという展覧会名だが、正倉院宝物始め見ないわけにもいかない。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝展見た。鑑賞経験としては昨日の三井記念美術館の東山御物の美展の方が純度が高かったが、東京のような田舎(by浅田彰)にいる者には正倉院宝物など、貴重な品を見る機会。後でまた投稿するかも。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝展、実際「豪華」で見て損はないが、展覧会としては「貧しい」。個別の品は良い物多いのだが、そもそも「国宝」とは何か?という問いかけが無い。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
日本国宝展、と称して、そこに国宝という在り方に対する批評的な視座、批評という言葉に興味がないならせめて研究的な視座が基底に強く据えられてないなら、仮にも国立博物館としての主張はどこにあるのか、と。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
美術館、博物館がいろんな現実的、世俗的条件で難しい運営を迫られており、それは個別の館の問題ではなく広くこの社会の博物館に対するリスペクトの問題なのだと思う。同時に、それへの疑問、抵抗を東京国立博物館が見せるそぶりも出せないなら、それはもう何処の館にもそれは求められないのであって。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
東京国立博物館が、博物館に対する諸条件、諸環境への、抵抗とらいわないまでも研究的視点が持てず、単に社会の欲望を反射するだけの主体性の確保できない「箱」としか振る舞えないのなら、それはやはり外部からの指示、力でしか方向を形成出来ないだろうなと思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
まるでダメだったとも思わないので、ポイントは中国、朝鮮半島の文物が国宝の14%を占める事を示し、幾つか展示していた事。日本国宝展、としておいて、少なくとも日本、という文化圏が広く東アジアとの交通の中で成立していることは示している。これは素直に素晴らしい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
現在の政治環境に積極的におもねれば、あえて中国、朝鮮半島のものは置かない、という判断もあり得たわけで、博物館の意図は別に、あそこは少なくとも日本国宝展の「日本」というものへの批評的、研究的視点を確保していたのではないか。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
だとすれば、今ひとつ手が届いていないなら「国宝」という物への批評的、研究的視点だと思う。キャプションにはその成立過程への言及はあるが、そこからさらに踏み込む姿勢が欲しい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝とは何で、どこに歴史的問題があり今後どうあるべきか、という提言までを東京国立博物館なら示してもいいのではないか。立場からいえば、それが出来る館であり、それが仕事の筈の館であり。国民がここにそれが出来る環境を与えてないというなら、はっきりと抗議の声をキャプションでも示していい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
というか、それがないななら国宝展は狭義の展覧会ではなく「国宝(というラベル)大好き!」という、作品・文物への眼差しを欠いた浅薄な欲望の鏡、ナルシシズム反射ショーにしかならない。繰り返せば個別の品は相応に見るに値するので、このような「豪華で貧しい」展覧会、博物館しか我々は(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
承前)持ち得ていないことを、来館者全員が再度考えてみる必要がある展覧会だと思う。そのような補完があって、初めて成立する展覧会。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
三井記念美術館「東山御物の美」展に関するツイート
三井記念美術館「東山御物の美」展についてのツイートをまとめました。非常に質の高い展覧会で、作品入れ替えもあるため、数回は見に行くべきかと思います。
三井記念美術館「東山御物の美」展観。ここに来たの応挙展以来かな。大変に充実していました。 根津美術館、東京国立博物館、岡山県立美術館ほかからも質の高いものが集まっている感じ。途中の展示入れ替えが多くて数回いかなくてはいけなそう。http://t.co/1kTq8gVWor
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
「青磁輪花茶碗 銘馬蝗絆」「油滴天目」も豪華でよかったとはいえ、 「東山御物の美」では中国由来の絵画がとても良く見えた。特に南宋「雪中帰牧図」李迪筆 、「夏景山水図」(伝)胡直夫筆など。室町の趣味というか気風がよくわかる。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
おもしろかったのが元の「宮女図」で、当時元では女官の男装が流行したとのこと。これも男装の女官図で、いやまぁ風俗と言うか「趣味性」みたいなものは今も昔もあるものだなぁと。萌じゃないけどさ。http://t.co/1kTq8gVWor
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
たとえば茶器や絵画にしても、桃山はやはり派手というか、目に派手なものが多いわけだけど、室町の気風・趣味は非常に品がある。そして、中国由来の器・美術品の、とくに良いものがきちんと選ばれている感じがある。このコレクション・セレクション能力の高さは驚くべきなんじゃないかなと感じた。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
東山御物の絵画、梁楷筆のものはブラッシュストロークに注目すると非常に面白い。この辺、中国絵画に縁がないと思ってる人にも、ごく形式的に興味をもって見ることができるのでは。たとえば雪舟がどういった中国絵画を見てあの筆跡を吸収したかを考えながらみるのがいいと思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
「東山御物の美」では雪舟のいた相国寺のものも出ているわけで、そういう意味でも雪舟をイメージしながら観るのが自然、といえば自然かも(でもキャプションなどでとくに触れられてなかったな)。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
あと器や花器などをどのように配置するのかをしめした君台観左右帳記が印象的。「並び」の重要性がよくわかる(茶室前のケースに、配置を再現したコーナーがあった)。多数写されて、かつそれぞれに異動があるというのも興味深い。http://t.co/1kTq8gVWor
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
そして帰りによったゲルオルタナは、まだ搬入中だった。RT @gellalterna 折原ナナナ、松本玲子、水戸部七絵による三人展 いよいよ明日からです! よろしくお願いいたします。 10/18 土〜10/26日 13:00-20:00会期中無休 オープニングレセプション:
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 17
横浜トリエンナーレ2014に関するツイート
横浜トリエンナーレ2014に関するツイートをまとめておきます。全体に前回よりもポジティブに見ました。
あ、まったくつぶやいていませんでしたが、今回の横トリ、僕はかなりアクチュアルなものだと思いました。少なくとも設定されたコンセプトと作品が相互的に作用してより違った側面を見せる、という展示が複数見られた。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
たとえば前回、設定されたテーマに対して、シュルレアリスムの作品と横尾忠則や石田哲也らの具象絵画を並べたような、牽強付会というか我田引水な展示によって作品の可能性を殺してテーマのアリバイ工作に使うような展示(僕はそう思った)より数段ノーブルではないか。>横トリ
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
今日はもう詳しく書かないけど、例えば冒頭(展示順では)のジョン・ケージの楽譜やマルセル・ブロータースの作品、ほかに主に画面が「白い」作家を持ってきたことはある意味多くの観客に対し「親切」な導入になっていたし、その上でけして個々の作品をないがしろにはしない、結構上手い展示だった。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
個人的には松澤宥の「本物の偽物」感、あるいは「偽物の本物」感(悪い意味ではなく、それこそ本物/偽物という分割自体をかっこにいれるような、という意味)が印象的だった。そして、あのような仕事(僕は全く「コンセプチュアルアート」とは別のものだと思うけど)に、どこか性的オブセッション(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)感じられたのが面白いなと思う。あと、松澤宥ってやはりユーモアがあるよなと。本人は徹底して真剣なんだが、すべての文章の最後が「80年以内に人類滅亡」(違ったかな)で終わるとか、反復されるとつい笑ってしまう。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
パレルモは一点しかなくてがっかり。僕は基本的に大竹伸朗は部分的な絵画しか評価しないのだけど、今回の作品は(幼児的誇大妄想的とはいえ)あるていど成功していたと思う(しかしやはりみな過剰にほめすぎだと思っている)(ああいった「幼児性」を「芸術家っぽい」と思う弊害は指摘したい)。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
あと、無知な僕に誰かイチハラヒロコと木村浩の関係性についてご教授いただきたい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山大輔「Works on Paper」関連ツイート
Twitterで投稿した青山大輔「Works on Paper」展の関連ツイートをまとめておきます。
公開デモンストレーションで思い出したけど、ART TRACE GALLERYの青山大輔「Works on Paper」もいわゆる画家の個展とは若干趣が異なる感じ。絵画展というよりはむしろ実験結果の公開というか、標本群の公開に近い。http://t.co/bTeNtKg2fu
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山氏の試みは美的作品の展覧ではなく、そのような感性的判断の基盤となるものを一個ずつバラしては微細に組み替えることで、判断それ自体を組み替えていこうとする一種の手術に近い。展示されているのはその手術でスライスされた病理標本ではないか。http://t.co/bTeNtKg2fu
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
いや、この言い方も少し違うかもしれない。青山氏の作品を見ることで手術されスライスされるのは、観客である僕の知覚、僕の感性的判断だったかもしれない。そういう意味では青山大輔「Works on Paper」は、手術の病理標本の展示ではなくそれ自体が手術台なのかもしれない。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山大輔「Works on Paper」、更にはある種の記譜であるようにも見える。一般にこういった試みに使われるたとえとしては日記、みたいな言い方があると思うが、しかしこの、あまりにも微分的かつどこか分析しきれない感覚の不鮮明な閾値を確認しようとする執拗な試みは、日記という(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)日常的なサイズに収まらない。率直にいえば、見て快感を覚えるような展覧会ではない。むしろ専門的な医師の症例報告、あるいはごく局所的な工学的実験結果の成果報告を読んでいるかのようだ。しかも、そこでの「成果」が、どんな「効果」を生み出すかまったくわからないような「成果」。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山氏にとって、美術とは、あるいは絵画とは、ある一定の「効果」を得るたものものでも、ましてやその作品を公開して観衆の「歓心」を得るためのものでは全くなく、前提として「認識」の問題であるということが理解できる。無論、近代以後の絵画において、(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)それが視覚的快楽を得るグラフィックなショーではないことは当然といえば当然なのだが、しかし、ここまでやってくれる例はなかなか貴重ではないか。そして、その上でいえば、その凄腕の外科医のような手つきで生み出される標本群が、ある一定の鑑賞の中でがっと「快楽」を、(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)いわば自分の視覚を直接触られるような快楽を得る場面が訪れる。そこまでの時間の遅延は「訓練」みたいな一種の苦痛を伴う(僕の場合はともなった)のだけど、快感が単なる刺激であるのに対し、快楽はやはり一定の苦痛を通過した後にくるものなのかなとも思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
絵画の制作過程という物語/『絵画と物語』展
ART TRACE GALLERYで『絵画と物語』展を見た。鈴木俊輔、長沼基樹、向井哲の三人による展覧会で、一般に絵画と物語と言うと、絵画の物語性が主題となりそうだが、そうではない。いわば、絵画の制作過程の進行と物語の構造を呼応関係において、物語から絵画の制作過程を逆照射しようという試みで、ちょっと面白い。以下はwebサイトからの一部引用。
一般に物語の創造は、複数の出来事の間に因果関係のコンテクストを設定する役割があり、これは絵画制作でも似たようなところがある。例えば発案された時点ではそれを遂行するための計画が慎重に練られたりするが、当然の如く逸脱へと移行し、後続する結果(作品)は、捻れた形で原因としての意味を獲得する。もとより出来事の記録が不完全であったり、記録する形式が不明な場合等、常に標準化しようとする我々の認識はかえってそれらに刺激され、強烈な欲望のもとに理解しようとするあまり倫理的な解釈にまで及ぶことも稀ではない。
ここでは絵画の制作過程のある種の「事後性」、別のいい方をすればある変形が意識されている。絵画の制作において、描き始める前に(程度はいろいろあるとして)想定されていた展開が、描きの途中で当然のようにある逸脱をはじめ、想定外のところに着地したときに行われる、作家の側のそのプロセスへの抵抗が、絵画自身に織り込まれる、このあり方を『絵画と物語』展は意識しようと言うのだ。例えば一般に作品の制作プロセスの「物語化」はその受容の局面で問題とされ、それを批判的に検討するとき決まって持ち出されるのは「そのような物語化に抵抗する画家」という「神話」なのだが、むしろ制作プロセスを「物語化」するのは時に画家自身かもしれない。ならばそのような過程を実際の物語を媒介にして検討してみよう、と見てとれる。少なくともこの展覧会は「制作プロセス」「結果としての作品」「作家」をすべて分割して対象化しており、作家を「制作プロセス」からも「結果としての作品」からも切り離して考えている。
こういう事は、ある意味意識的な作家から見れば日常的かもしれず、見方によっては当然の前提かもしれないが、当然の前提を改めて俎上に上げ再度意識下することは大事なことだし、また、それを展覧会として組織し「観客」にも提示することは興味深い試みだ。ここでの「観客」は、おそらく展示作家自身も含まれる。そのように自分で作品を、展示を組織することによって対象化すること。しかもその対象化の対象に制作プロセスも内包すること。こういう試みは何度でも繰り返し各作家によって試みられていいように思う。また、三人でこのコンセプトの捉え方自体がそれぞれに異なっており、その偏差も見るポイントになる。
鈴木俊輔の作品は、その色彩の明度と彩度の関係に独特の「法」のようなものが感じられる。低い明度と高い彩度によってある種の色彩の輝きを作ることは、美術史的にはゴーギャンなどを見ればわかるように絵画の世界で一定の流れを持ったものだけれども、しかしそのようなあり方が「手法」として固定化すると、急速に画面は定式化して動きを失う。鈴木はそのようなマニエリスムを避けて制作を持続していく、ある「法」を自らの中に持っていると感じられるのだ。このような「法」と「手法」は、何が異なるのかといえば、恐らく鈴木の作品においては主体性が色彩を含めた作品(絵画)の方にあるのだと思われる(つまり、今回の展示のリード文に即していえば「欲望」が作家ではなく作品の側にある)。
鈴木が参照項として選択したのは宮沢賢治の「オツペルと象」なのだが、この象達の猛った暴走が、鈴木の作品制作の隠喩のようなものとして機能しているようにも思う。出品作品は、画面が細かな色面に重なり分割され、その分割された形態がそこかしこで象や林・森の形象を想起させるのだけれども、ここで鈴木の作品は、宮沢賢治の物語をプレテクストとして扱っている。つまり物語を図解することなく、自身の作品の、色彩とマチエールをなんとかコントロールするためのガイド線のようなものとして扱っているように見える。鈴木の作品では油絵の具が、溶け混ざろうとしてそれが禁じられ、彩度をお互いに殺しあうことなく相互に関係するようにしながら画面がモザイク壁画にようにオーバーレイし細分化しひび割れていく。色彩の応答関係ということなら小室の縦長の作品が最も効果を上げていたが、この作家の画面は最終的に大きな画面を希求しているように思える。セピア系の色調で統一した作品は、まとまりがある分、作品の自律的運動が乏しいように思える。
向井哲の作品は彫刻が最も良い。過去にも一度、僕は向井哲の作品を見ているが、その時も彫刻がいいと感じた。前回はあまりに手先の運動に過敏になっているように見えた絵画よりも、若干不器用な断面が作品の表面を均していない彫刻がよく見えたのだけれども、今回の彫刻はかなり精密に、こういってよければ高精度に仕上げられたサーフェースを持ちながらなお良く見えたので、この作家にはかなり本格的な彫刻家の資質があるのかもしれない。絵画も前回見たときよりは良く見えた。それには作品サイズの大型化、タッチの要素の増大と複雑化が貢献しているように思う。
一見ただタッチが散乱しているだけに見えながら、そのタッチが架空のタッチで切り取られている。タッチの形にマスキングされた上からタッチを重ねてマスキングを取っていると思われるが、このような操作が見た目以上に画面を複層化している。岡崎乾二郎の影響も感じる出品作だが、いずれにせよ、やや慎重に見える絵画よりは、えいやっとやっている感覚のある彫刻が優位に見えた。しかし、それでも絵画がある拡張感を持ち始めているのであれば、それはアナバシス(クセノポン)の物語を梃子に置いた成果なのかもしれない。
長沼基樹は、僕にとっては今回の展示で最も“苦戦して見える”作家だった。端的にいえば小山田浩子の「穴」という元になるテキストの「挿絵」のようなものに、今回の出品作はどうしても見えてしまう。逆を言えば『絵画と物語』という展覧会に観客が期待するある種の欲望に、最も効果的に応えている作家なのかもしれない(そういう意味では最も「成功」しているのかもしれない)。しかし、今回の企画意図という視点からいえば、小室に展示してある小さい作品が、一番的確に応答しているように見える。
ここでは丘陵の斜面に低い雲がぶつかっているようなイメージがあるのだけれども、その雲をイメージさせる絵具のマチエールが溶剤に溶けて丘陵を感じさせる色彩の上に流れだそうとしている。ここでイメージとマチエールは一気に反転し、画面全体が油絵の具の緻密な濃度のコントロールされた湖のように見えてくる。そしてその眼でほかの作品を見れば、一見素朴な「挿絵」に見える絵画が、絵具というメディウムとそれが必然的に組織してしまうイメージの共犯関係を明らかにする作品にも見える。相当に「上手く」見えてしまう点がこの作家の条件なのだと思うが、その「上手さ」をどこまで遅延・回避できるかが(見る側にも)問われる作品と思えた。
グループ展でここまで企画コンセプトと出品作を緊密に関係させる試みは珍しいのではないか。必ずしも派手な展覧会ではないが、作家自身が自らの制作を批判的に捉えているという意味で、かなり貴重な展覧会になっていると思える。その試みがどこまで成功しているかは判断が分かれるだろうが、僕にはそのばらつきの判断と検討も含めて、多くの人の目に触れていい展覧会であるように思う。
※会期は火曜日まで。
「反戦 来るべき戦争に抗うために」展に関するtweet
「反戦 来るべき戦争に抗うために」展が開催されています。思いのほかTwitterで感想を書き込むことになったので、こちらにもまとめておきます。展示に関しては以下のURL参照のこと。
反戦展で印象的だったのは佐々木友輔さんの作品。あれ、音が注目点(音だから注目は変だけど)だと思う。ぜひヘッドホンをつけてみたほうがいい。ばばば、とマイクが風の音を拾っているんだけど、この音がとても気になる。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
「土瀝青 asphalt」でも風音が入るところがあるんだけど、機材の関係か、とても音が似てる。この風音の入り方が、なんというか佐々木さんの文体のようなものになっていて作家性のようなものを感じた。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
中山二郎氏のビー玉(ガラス玉)は、展観中数回蹴っ飛ばしたり踏んだりした。勿論そういう作品なのだと思う。「一見普通の場所なのだけど、注意して歩かねばならない」。反戦、というテーマに一番身体的に気付かされる作品であったように思う。ささやかな作品だけど。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
内海聖史さんの作品は「ブン殴れる絵画」らしいのだけど、高い位置にあるせいか旗のようにも、あるいは斧の刃が絵になったようにも見えた。見ようによっては暴力的にも政治的にも見えたけど、その総体にどこかユーモラスなものがあった気がする。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
豊嶋康子氏の作品は、とにかく読ませる。文章の内容がべたに記憶に残る。あの手書きの文字と文章はとても「体」を感じさせる。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
反戦展、池田剛介さんの作品は端的に危ない。戦争が想起される展示で破片的なものが「美しい」ということ。川端龍子の爆弾散華もそのような作品だけど。ひとつ感じたのは池田さんの作品が身体的な欲望を喚起すること。「尖ってるのに柔らかい」感じが触ってみたくなるし、どこかネイルアート的な(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
感覚もある。簡単に言うと、ちょっとエロティックな感覚がある。技術的に同じ金魚のシリーズとはそこがちょっと異なっていて、より危ない。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
眞島竜男さんの作品はダイアグラムが紙にプリントされているのだけど、単純に勉強になる。「戦争画」の位置情報がダイアグラムによって明確に近代日本美術史に示されていて、それがなおかつ持ち帰ることができる。展示会場の壁にあるので「絵画」、しかも「戦争画」の裏返しの「反戦画」は(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
ありうるか、という試みにもなっているかもしれない。戦争画のネガは、反戦を情緒的に訴えるのではなく、戦争画をきわめて手際よく相対化しマッピングしその位置情報を頒布するという知的な戦略によって反戦画としてなりたちうるか、と見えた。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
浅見貴子氏の作品は、たぶん反戦展の中でもっとも「効果がない」展示のされ方をしていたと思う。直接反戦をうたう内容ではなく、会場側面右上方にひっそりとあり、小さな水墨画ということで単純に目立たない。このようなキャリアと実績をもつ画家が、こういう場所でこういう展示を(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
する、という意思に、僕はわりとべたに感銘をうけた。反戦、という意思は、いかなる「効果」とも無関係にこの作家にある。反戦展に、反戦とかかわらずいつもの自分の制作している作品をひっそりと出す。それがこの作家の反戦である、と。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
田中功起氏の作品もそうだけど、僕が面白いと思ったのは田中氏のtwitter上での発言。要するに、反戦展に参加しようがしまいが、発言しようがしまいが、展示にかかわろうが係るまいが、この展示を意識してしまえばそこに風邪のウィルスのように「反戦展」は伝播しうると。氏の作品と共に、(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
この田中氏の発言で、反戦展は会場の外に拡張され過去・未来に延伸した。この拡張の仕方が面白いなと思った。あとは会場の展示が、意外なほど作品の間に「隙間」があったこと。あれ作品サイズのレギュレーションの結果とみていいのかな?この「隙間」が、やはり展示の拡張力に繋がっていたように思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
僕は今でもたとえばデモは苦手で(集団的自衛権の閣議決定時の反対デモを「見学」に行った時も改めて思った)、今回のように「反戦」をうたう展覧会も、デモに近い抵抗感を感じるかと思ったけど、作品間に間があり、ある意味強く出ない展示になっているので、すんなり見ることができた。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
主義主張を大声で叫ぶような展示ではなく、むしろ意外にささやかな声で、展示者相互が、あるいは来場者相互が話あうような感覚があって、デモなり政治的メッセージを持った場が苦手な人にも風を通すような「隙間」のある展示になっていたように思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 9月 26
永瀬恭一個展「もぎとれ 青い木の実を」
那須高原にての個展のご案内です。今回は画集を見て絵を描く、という試みを中心にした展示となります。「組立-転回」では狭い色調、主に白のバリエーションとドローイングの組み合わせで作品を作っていましたが、今回は色彩が前面にでることとなりました。展覧会名は、立原道造の詩から。
遠方からいらっしゃる方は永瀬までご一報ください。Sunday galleryであればなるべく在廊しようと思います(お約束はできませんが)。
- Bar+Gallery殻々工房
- 2014年10月11日〜2015年1月17日
- 18:00-24:00(Food Last 23:00)
- Sunday gallery 12:00〜14:30(LO14:00)
- http://karakara.pepper.jp/
- 定休日:木曜日、12月31日、1月1日
- 10月18、19日は臨時休業します。
- 他にも都合により臨時休業する場合があります。遠方よりお越しの場合はご連絡下さい。
- Phone.0287-78-1100
- karakarafactory@gmail.com
- 栃木県那須郡那須町高久乙820-162
- 地図:http://karakara.pepper.jp/access.html
通常営業時間の18:00-24:00pmは、店内が大変暗くなります。作品を中心にご覧になりたい方はSunday gallery(日曜12:00〜14:30pm)をお勧めします。
交通ですが、電車の場合は黒磯駅から東野バスにて広谷地下車、徒歩15分くらいとなります(細かい道がありますので地図にお気をつけください)。バス時刻表は以下。
年明け1月までの長い会期をいただきました。殻々工房はお酒、お料理共に素晴らしいBarです。秋冬の那須観光の際にお寄りいただければ。