「20世紀末・日本の美術−それぞれの作家の視点から」発刊のお知らせ

ART DIVERより、2012年に行われたシンポジウム、「20世紀末・日本の美術−それぞれの作家の視点から」を書籍化したものが発刊されました。


20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から

20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から


1989年から2003年〜05年にかけての日本美術の出来事を、中村ケンゴさんを中心とする3人の作家、及び元美術手帖編集長の楠見清さん、横浜美術館木村絵理子さん、さらに学芸員を経て大学講師・美術批評を手掛ける小金沢智さんらも交え、立体的な視点で描きだしています。今回の書籍化に関しては様々な方にお世話になりました。改めてお礼申し上げます


中村ケンゴさんと共同で「アート系ウェブサイトの黎明期」と、更に永瀬単独で「美術館建築ワースト/ベスト1? 」のコラムを書き下ろしました。また、本編で触れた藤田六郎氏による「大丈夫、あらゆる意味で誰も頼んでないから」を採録、活字化しました。


加えて、今回の書籍化の副産物となりますが、伝説の多摩美術大芸術学科の美術理論誌「issues」が、この書籍化をきっかけに全号東京都現代美術館図書室に収蔵の運びとなりました(今までは5号中3号まで収蔵)。今回、このような事が実現できたのも、「issues」についてご相談させて頂いた方々、及び東京都現代美術館様のお陰です。深く感謝します。当然、公開されていますので、皆様ぜひ、東京都現代美術館の図書館までお出かけください(「issues」本体についての説明はぜひ書籍をご一読ください)。


自身としては、活字化にあたって角を丸めることなく、自分なりのメッセージを明確化することに努めました。そのメッセージについては、以下の著者インタビューにまとまっています。こちらもぜひお読みください。現在開催中の個展についての丁寧な取材もしてもらえています。

http://artdiver.moo.jp/?p=973

「ちらかしんぼ」を生む高度さ・「三つの机のあるところ」展

Art Center Ongoingの秋本将人、臼井拓朗、益永梢子「三つの机のあるところ」展について。この展覧会での秋本将人の振りきれっぷりは相当なところまでいっている。もちろん、この展覧会は三人展であり、そして展示を見た人にはすぐに理解されると思うけれども、この展覧会は三人の作品が、まるで散らかった子供の部屋の様に/しかし、同時に極めて綿密に(あるいは精密に)構成されたもので、ここから一人の作家を取り上げることはフェアではないのかもしれない。それでも、僕の目には秋本将人はこの作品相互の関係性の中で、相当遠くまで飛距離を伸ばしていたように見えた。


注意しなければいけないのは、ここでの「飛距離」と言う言い方はけして「作品の質」とイコールではない、ということだ。おそらく、最も「飛距離が短い」のは臼井拓朗であり、その間くらいのところまで作品を「飛ばして」いるのは益永梢子だと思う。そして、個々の作品が「良い」か「それほどでもない」かは全く別の判断としてある。臼井拓朗の、モニターでデスクトップ上の諸道具がちかちかと点滅するように入れ替わり立ち替わりする映像は、ずっと見ていられるような質を持った作品だし、益永梢子の、生地と板と金具を組み合わせた作品も、その色彩と平面性とオブジェクト性の組み立てかたにおいて、はっとするほど知的なものだった。


秋本将人の、小さな木材に塗料(絵の具)を挟んでクッキー状にして、紙の箱に配列する作品は輪郭のくっきりした、工芸的な質も担保しながら同時に絵画性の中の諸知覚−味覚や触覚や嗅覚−を動員させるような複雑さを持っている。けれども、それ以外の、例えば紙の箱に納まっていた木片を床に散らかしてみたり、皿に盛った作品、あるいは簡易な箱を作業台として床におき、そのとなりに明らかに「作品を作った余り」をおいてみたりする作品は、ほとんど「作品」としての輪郭を失っていくぎりぎりのところにある。


これらの作品は、いわばかっちりとした「作品性」といったものから見たら相当遠い=飛距離が長いものであることは間違いないだろうけれども、例えばこれをお金を出して「所蔵」したり(はっきり記憶していないので間違いかもしれないが、作品表ではこれらの作品は非売だったように思う)しようとしたとき、相当に覚悟がいるだろう。少なくとも僕であれば「買う」となったら臼井か益永の作品を選ぶ。そして、なおかつ、美術という営みが人のどのような知性や感覚を刺激するかは、そのような「作品性」とは必ずしも一致していないのだとういうことがわかる。


もっといえば、そももそこのような様態の作品が、秋元一人の手で生み出された、と言っていいのかすら怪しい。搬入の現場はまったく不明だが、恐らく事前に精緻に計画されたというより、三人の間で一定のプランを持合いながら、それを基準に半ばインプロビゼーションで決められたのではないかと想像する。展示には高度なインプロビゼーションが介在しなければ到達しえない厳密さというものがあり、こういう厳密さは一度達成されてしまうと、事前のプランニングの、時間をかけた構築性には手が届かない複雑性に達することができる。「三つの机のあるところ」は、あきらかにこのような複雑性を成り立たせていた展示で、秋元の散乱的な作品はそのような複雑さによって支えられているのか、それもと秋元の作品がそのような複雑さを生んでいるのか判断がつかないところがある。


その意味で、やはりこの展覧会は個別の作家をフレームアップするべきではない性質のものかもしれない。同時に、最終的に展示として・作品として提示されてしまった時、個々の「作家」が析出されてしまうのもまた(おそらくは近代性に基づいた)美術というものの残酷さであることも無視できない。近所の子供たちが自宅に遊びに来て、自分のアトリエを遊び場にして帰って行った時(僕の自宅兼アトリエには「壁」がないので自動的にそうなる)、おうおうにして散らかったままのアトリエを片付けるのは、面倒でありながらそこに痕跡として残った子供たちの「熱量」を吹きこまれるようなわくわく感がある。子供たちにとって、家の中でありながら床に絵の具がべたべたとついていて、脚立やパネルが置いてあるアトリエは、普段自分たちが生活する部屋とは異なった感覚を開く契機となるだろうし、それを後から片付ける僕にとっては「制作」という、ある一定のフレームをその空間に設定してしまっている(日常的に制作していると、どうしてもそうなってしまう)アトリエに、まったく異なる運動原理が展開したことが、とても自分の風通しをよくするような感覚として残る。


そういった感覚は、アトリエでも遊び場でも家でもない、複数の契機のより糸のようなものから形成される。秋本将人、臼井拓朗、益永梢子の三人にとって、机とはそのような場所としてあったように僕には見えた。言うまでもないが、そのような場所を意図的に算出=産出するのには、単なる幼児性には全く不可能な深い知性と運動神経が必要なのであって、「三つの机のあるところ」展は、とにもかくにも最近見ることのできた展示の中では最も高度なものだった。その中でもっとも「ちらかしんぼ」だったのが秋本将人だったということなのかもしれないが、そのような固有名詞も、あくまで展示の事後性の中で浮かんでいるものだとは思う。

「Mixjamは見た26」に参加します。

毎年茨城県古河市で行われている、古河三高美術部OBによるグループ展「Mixjamは見た26」に参加します。新作の油絵5点程になる予定です。

http://mixjam2006.seesaa.net



古河市近くの渡良瀬遊水池には詩人・逸見猶吉の碑があります。


◆谷中村生まれの詩人 逸見猶吉


青空文庫/逸見猶吉詩集


今、ちょうど関心を持って読んでいる詩人なので、可能なら碑も見てきたいと思っています。

ボナール論掲載のフリーペーパー「新しき場所」発行・配布のお知らせ

あけましておめでとうございます。

このたび、知人が開設した空間「6号線」に、ボナール論を掲載したフリーペーパー「新しき場所」を置かせていただくことになりました。会場のすぐそばを走る国道6号は、そのまま福島に繋がっています。



向島の商店街にある木賃アパートの2階を改装した小さな場所ですが、非常に魅力的な空間になっていると思います。昨日9日から、オープニング企画として写真展「RECORD 0920 2014」が始まっています。以下、webページ(http://roku888.blogspot.jp/2014/12/record-0920-2014.html?spref=tw)から引用します。

福島第一原子力発電所の事故により、一部区間で通行が規制されていた国道6号線が、2014年9月、3年半ぶりに全線通行可能になりました。
9月20日、友人と国道6号を北に向かい、福島県内で撮影した写真を展示いたします。

RECORD 0920 2014

会期 2015年1月9日(金)- 2月1日(日)
   12:30 - 18:00 
   *金、土、日曜日のみの開催です

場所 6号線
   *写真とその周辺の展示、作業室
   東京都墨田区向島5-50-3
   鈴木荘2階2号室(鳩の街通り商店街内)
   東武スカイツリーライン
   曳舟駅西口より徒歩約7分
   押上駅より約15分

http://hatonomachi-doori.com/access.html



東京造形大学で一緒に演劇をやっていた彼女・彼が、社会に出てずいぶん時間がたった今、改めてこのような場所でこのような試みをする姿勢に共感して、フリーペーパーの発行と配布を申し出ました。
ボナールは以前から気にしていた画家ではありますが、11月にこういう企画が進んでいると聞いて、背中を押されるように書き始めることになりました。15000字を超えて、A3裏表では収まらずVol.1・2同時発行となりましたが、写真を見るついでにお手にとって頂ければ幸いです。以下、本文から一部を転載。

 ボードレールの言う「想像力(未来)」と「記憶(過去)」の交点にボナールはいる。ボナールが保護しなければならなかったもの。おそらくそれは、意外な奥行きと広がり、ボナール自身の言葉から考えられる以上のものをもっていた。それは単に「記憶」といえば了解できるものだけではなかった。記憶を保護しながら、しかし記憶を再現するのではない、その先へ、ボナールは向かった。むしろ記憶を維持し、反芻し、様々な構成上の試行錯誤をしなければ描けなかった「何事か」があったのだ。そして、それを守ることができなければ、それはたちまち「まるで蜘蛛か痰のようなものだと口走ったことになってしまうのである。」。ボナールが興味深いのは、あるいは最後までマニエラに陥らずにいられたのは、不定形なものもその一部に含めた世界・宇宙全体と交渉することで成り立つ「哲学」を探し続けたからではないだろうか(だから、不定形なものと「哲学」を二分して考えるバタイユは、ボナールに比べてあまりに単純なのだ)。そしてそれゆえに、ボナールには絶えることのない謎が、謎という言葉が適切でないならば問いかけが、大きな淵を空けていた。それは安直な心理主義とは関係がない。世界を揺り動かし、溶融させ、かつ再結晶化させる何事かへの視線、まなざしがボナールにはある。
 ボナールが絵画表面に代理され表象されているのではない。絵画表面にあるものがボナールを造形している。ボナールを形成したあらゆる揺れを、力を見逃さないよう、注意深くボナールの絵画を追ってみたい。

個展「もぎとれ 青い木の実を」会場の様子


那須・殻々工房での個展「もぎとれ 青い木の実を」も、会期が残り一か月となりました。会場の様子を掲載します。





近代絵画の画集を見ながら描いた(模写、ということではないのですが)作品が中心になります。ほかに自宅の庭をモチーフにしたものが2点。


殻々工房のSunday Galleryの自然光は素晴らしく、本当に恵まれた会場になっていると思います。夜のbar timeは逆に非常に暗くなりますので、作品に関心を持って下さったかたはぜひSunday Galleryをご覧下さい。

  • Bar+Gallery殻々工房
  • 開催中〜2015年1月17日
  • 18:00-24:00(Food Last 23:00)
  • Sunday gallery 会期中日曜日12:00〜14:30(LO14:00)
  • http://karakara.pepper.jp/
  • 定休日:木曜日、12月31日、1月1日
    • 他にも都合により臨時休業する場合があります。遠方よりお越しの場合はご連絡下さい。
  • Phone.0287-78-1100
  • karakarafactory@gmail.com


交通ですが、電車の場合は黒磯駅から東野バスにて広谷地下車、徒歩15分くらいとなります(細かい道がありますので地図にお気をつけください)。冬季は雪の情報にもご留意ください。バス時刻表は以下。

『土瀝青―場所が揺らす映画』に寄稿しました。

ブログでの告知が遅れましたが、トポフィル刊の『土瀝青―場所が揺らす映画』に「音/声/映像の中点に生まれるもの 佐々木友輔《土瀝青 ASPHALT》冒頭二分十六秒の構造」を寄稿しました。ストローブ=ユイレの映画、石川卓磨氏の展示を参照しつつ「土瀝青」を論じます。三時間の映画を冒頭数分だけに絞って考えました。


土瀝青 場所が揺らす映画

土瀝青 場所が揺らす映画


美術や絵画についてはART TRACE PRESSなどで文章を書く事もあったのですが、映画についての文章を活字にするのははじめての経験です。緊張感もありましたが、《土瀝青》の映画としての緻密さもあって、全体にたいへんに楽しく書きました。


11月22日(土)にはイメージフォーラムにて『土瀝青―場所が揺らす映画』書籍刊行記念上映・トークイベントがあるとの事です。《土瀝青》を劇場で見る貴重な機会ですので、関心のある方は是非足をお運び下さい。本も買える筈です。


なお、『土瀝青―場所が揺らす映画』は、現在開催中の僕の那須の個展会場にも置いてあります。下は、殻々工房のカウンターの写真。

「複々線」展に関するツイートまとめ

2013年の作家・批評家による自主企画展「引込線」展(参考:id:eyck:20130918)から派生した「複々線」展に関するツイートをまとめました。


■「複々線」の情報


「引込線」は元々所沢ビエンナーレとしてあったものですが、2011年の開催時には明らかに「非ビエンナーレ」として展開していました。その明快なビエンナーレトリエンナーレ形式の地方アートイベントへの批評意識についても僕は過去に記事を書いています(参考:id:eyck:20110918)。


会場には、「引込線」展に対し、規模の大きさから本来のポテンシャルが失われている、故にこの小規模な展示を行う旨のメッセージが張られています。「引込線」展の大きな流れの中で、更に自分たちの参加した展示への再検討的な意図をもった「複々線」展の開催は、非常に興味深いものです。結果的に、小規模であっても緊張感を失わない、鋭い展示になっていたと思います。